奥の海や 蝦夷が岩屋の 煙だに おもへばなびく 風は吹くらん                  家隆集 従二位家隆
我がためは つらき心の 奥の海に いかなるあまの みるめかるらん                  新続古今和歌集 後鳥羽院
我が方は そむきの島の 人ばなれ しらず心の 奥の荒海                   弘安元年百首 後九条内大
たのめても あだし心を 奥の海の 荒き磯辺は 寄る舟もなし            続後拾遺和歌集 常盤井太政大臣入道
奥の海 塩干の潟の かた思ひ おもひやゆかん 道のながてを                     夫木和歌集 詠み人知れず
うしとても 身をばいづくに 奥の海の 鵜のいる岩も 波はかからん               古今和歌集 順徳天皇
尋ね見る つらき心の 奥の海よ 汐干のかのに いふかひもなし                     新古今和歌集  前中納言定家
おなじくは おもふ心の 奥の海を 人に知らせで しづみはてなん                     新続古今和歌集 左大臣
夜をさむみ つはさに霜や 奥の海の 河原の千鳥 更けてなくなり               夫木和歌集 少三位知家卿
さゆる夜は いくへか霜も 奥の海の 河原の千鳥 月恨むらん                      夫木和歌集 従二位家隆卿
右上  野辺地町指定文化財野辺地港に立つ常夜灯 奥の海 十府の浦
西回り航路・東廻り航路の最終湊として陸奥の檜・奥の海の昆布等の大阪・江戸への積出港・蝦夷地への中継湊として栄えた 日本最古の常夜灯ともいわれ文政10年(1877)大阪商人橘屋吉五郎と野辺地の豪商野村治三郎が建立したという 今の野辺地のシンボルとなっている 昔は毎年3月から10月まで本物の灯りが灯されていた 南部盛岡潘の野辺地代官所を置き日本海西回り海運の拠点湊としたのです 
右下 十符の浦碑 奥の海 十府の浦    野辺地湾は十府の浦と呼ばれている 
                  
 あすは又 いづくの野辺に 枕せん 蝦夷が千島も 遠くなりゆ 小磯氏女 
野辺地は夷語なり 地を清めて乃別(ノベチ)とよむにて・・・古へ十符の浦といへり(大日本地名辞書)とある 十符の浦の歌名所は宮城県多賀城と岩手県野田町にもありここ青森県にもあるとは知りませんでした 
 青森県の面積の25%を占める陸奥湾 帆立・ホヤ・海鼠・ひらめの養殖のメッカで、殊に帆立は日本帆立養殖発祥の地である。津軽半島平館村と下北半島脇野沢村を結ぶ最狭部は10・5kmで仕切られたその面積は東京湾の1・7倍の1667・89平方kmで平均水深38m 最深部75mを誇る日本有数の港湾である。その湾岸には14市町村 42万人が生活しているのです。この豊穣の海こそ歌に詠まれた奥の海である。実はこの海と同じ名前の海が宮城県石巻にも有るのです。今その海は万石浦と呼ばれていて同じく海の畑と言われるほど養殖漁業が盛んです。陸奥にはこの様に同じような名前が結構あるのです。例えば茨城県日立近辺にある多珂は福島県南相馬市に高とありそこには多珂神社もある。更に北上して宮城県の多賀になって国府多賀城がある。亦同じく日立の大甕が福島県の南相馬市にもあるのです。亦秋田県にある花輪・平鹿郡は青森県にも鼻和・平賀郡として存在していたのです。勿論外にも調べれば沢山あるはずである。之の意味する所は大和朝廷によって蝦夷が北へ北へと追い詰められていった証であり以前の居住地名が移動先にも同じ地名を付けたものである。奥の海も全くこれと同じでしょう。征東夷初期の地 伊寺の水門(石巻)で上毛野田道将軍が367年(仁徳天皇御世)に戦死した頃はこのあたりが陸奥の最奥の地であったろう。だから奥の海と詠まれたのです。然しその後も大和朝廷の領土拡張政策は続き田村麻呂将軍が盛岡に志波城(803年)を築城し、次の文屋綿麻呂(812年)が青森県糠部都母村で壷碑を彫ったが、かれは恐らく野辺地辺りまで到達していたのではないだろうか。 彼はそこでこの広大な海を見て改めて「これが奥の海だ」と叫んだかも知れないのです。古来辺境の蛮族を東夷・西戎・南蛮・北狄呼んでいる。北の蝦夷が北狄である。それでは何故最北にある海を北の海と呼ばずに奥の海と呼んだのだろうか?北は単なる方角の表示だけでそこに深い意味は無いでしょう。所が『奥』とは辞書によると『奥深く遠い所・貴人の妻(大言海・富山房)』『表面に現れない隠れてる深い部分・めったに人に知られない部分(日本語大辞典・講談社)』『物事の深遠で達しがたい所・容易にひとに知らせぬ事例・遅れて成熟したり成熟の遅れている事・真髄(国語大辞典・角川書店)』とあり真に奥深いのです。開拓尽くされ総てがあらわになった現代に『奥』はなじまないのです。今都はるみの演歌「北の宿から」が「奥の宿から」では袋小路にある連れ込み旅館になってしまうし、古の「奥の海」「奥の細道」が「北の海」では相撲の関取になってしまい、「北の細道」で田舎の砂利道でそこには心に訴えるものは何も無い。古の陸奥の「奥」には実に未知なる物への畏敬の意味が込められてるのではないでしょうか。芭蕉の
      風流の はじめや奥の 田植え歌
にはこれから行く見た事もない知られざる旅程への恐れと期待と好奇心が込められてると思えるのです。このネーミングは古代の人々の奥ゆかしい心情のあらわれだろう。(平成18年6月20日)

(参考 青森県の歴史 河出書房新社・青森県の歴史散歩 山川出版社・街道をゆく3 朝日新聞社)

            奥の海