左 従是西北津軽本次郎分  津軽側藩境塚
青森県県指定史跡藩境塚(通称四ッ森)  東津軽郡平内狩場沢
江戸時代津軽藩・南部藩の境界に築かれたものである二股川(境の川)を挟んでそれぞれ二基づつ合計四基ある 両藩の境は文禄4年(1595)に定められたが築造年代不明である 二股川と烏帽子山山頂の結ぶ線が藩境だったが山中の境がはっきりせず度々紛争が起きたという 司馬遼太郎の街道を行く其の3で彼は偶々小便をしに車を下りた所がここ藩境塚


青森県県指定史跡野辺地戦争墓碑 下北郡野辺地町鳥井平
津軽郡兵士27名のが刻まれている 明治元年(1868)戊辰戦争で官軍側に寝返った津軽藩(弘前藩)奥羽越列藩同盟についていた八戸藩・盛岡藩に侵入したが両軍の反撃にあい退却した 津軽藩は49名超の戦死者をだしたが翌年ここに27名の戦死者名を4基の墓碑に刻んだ碑を建てた 後には明治元年戌辰九月二十三日討死 とある
 
左 従是東南盛岡領  南部側藩境塚
 『この偶然の小用足のおかげで私は生れて初めて藩境というものを見た』と書いているそして『・・・所が私がこの野辺地湾の海辺で見つけた藩境は異風なものである 土地では四ッ森とよばれているらしい 森と云うが土盛りの盛かも知れない 丁度古墳の陪塚ほどの大きな土饅頭が四つ方形にならんでいる・・・』と書いている 面白いのは津軽藩・南部藩の怨念が案内板にワザワザ『野辺地町(南部藩教育委員会)・平内町(津軽藩)教育委員会と併記してあるのを見て
 ➡『・・・津軽家に領土を奪われたという歴史を持つ南部藩の場合木柱や石柱と云う簡単なものに済ませるというには余りにも深刻だったに違いない 古墳でも築くように土を盛り上げその上に松杉まで植えたればこそこのように除去されずに遺たのであろう 津軽藩の場合はまたまた南部衆めが例によてえ執念深く妙なものこしらえおった と云う訳で対抗上やむなく対になる二つを築いたに相違ない うんざりしているような感じが津軽側の塚作りのぞんざいさにもあらわれているような気がした』と 彼らし感想文で書いている こんなところにも南部・津軽の諍いがうかがえる  現在は両塚とも手入れが行き届いて美しい                         上 JR大湊線 
下北半島陸奥湾岸に沿って走る
JR大湊線(吹越露伴と桂月二人の碑の隣を走るが御覧のように茫々とした尾花ばかりで何もない 右側の芒のとなりがすぐ陸奥湾である

 JR大湊線有戸駅 左北野辺地 右吹越
有戸駅(有度の牧の名残の名だ)
西側すぐ隣が陸奥湾(奥の海)で東側一帯は丘陵が太平洋側の尾駁の牧(六ヶ所村)まで続く所謂有度の牧のあった所である 駅名に往年の牧の名が残っている 大町桂月が大正11年この辺り逍遥して馬が十里四方群れ遊んでいると歌い露伴も馬どもが三々五々自由奔放に振舞ってるのに驚いてい詩に残している(説明板) 恐らく戦前までは軍馬等の需要があり牧場があったのでしょう 勿論今は馬は見当たらず尾花ばかりである(次頁)


      奥の海 其の2A