幸田露伴の詩碑 後が陸奥湾 奥の海  左に絶えず海を眺めつつ ぼうぼうたる原中を歩まするに しょうぶ はまなす遠く近く咲きにおい さまざまの鳥の歌声のどけくて 立てる すわれる ねむれる当歳・二歳・三歳以上の馬どもの おのがじし自由にふるまえるも 我らまなこにはあたらしい  明治25年(1892)7月10日から8月15日までの紀行です 碑文は東京から仙台・盛岡・野辺地を経て恐山に向かうときこの辺りの情景を描写したものとおもえる
 
上 本尊安置地蔵殿 扁額には伽羅陀山
左下 三途の川に架かる太鼓橋 身に覚えのある罪を犯した方は渡れないそうですよ でも隣には鉄筋の三途の川橋がありますからどなたも入れます
 大町桂月歌碑 大湊線の隣
一沼に 馬群れ十里
尾花かな
 大正11年9月9日
 
この二人の碑の隣の何もない大地をを大湊線が走っている
右上 恐山の入り口にある中国由来の経典十王経の死後の世界の話にある奪衣婆と懸衣翁の像 人が亡くなると三途の川までくるとそこで奪衣婆が待ち構えていて身ぐるみはがしてしまう その衣類を懸衣翁が受け取り傍らの柳の枝に懸けその枝のたわみ具合で生前の悪業の軽重を推量するという その後閻魔様などの前に出て地獄か極楽かどちらに行くのか言い渡されるのです 三途の川の傍らにある(説明版)
左 恐山菩提寺山門
山門は5間3戸 入母屋造り 本瓦葺 2重櫻門 左右金剛力士像 上層部五百羅漢像安置されてる
 慈覚大師堂
伝承によれば貞観4年天台宗慈覚大師円仁が一羽の鵜に導かれてこの地に至り地蔵尊を祀ったことに始まるという夢で告げられた霊山を捜し歩き恐山に辿り着いたという

奥の海2B