宇曾利湖 極楽が浜 白い砂浜がで覆われ南国のビーチのようであるが造花や風車が立てられていて霊場の一端を垣間見る
➡恐山は今から凡そ1200年前の昔慈覚大師円仁がにより開山された霊場である中国での修行の若き日に見た夢のお告げに導かれて諸国に説教をしながらの旅の果てにこの下北の地に辿り着いた時霊山ともいうべき風光に感じ入り地蔵菩薩一体を彫り本尊としたのが始まりと云う(観光パンフレットより)八峰と宇曽利湖を合わせて恐山と言い下北半島国定公園に指定されている |
右上下 会津斗南藩士上陸の地
尾張・紀伊・水戸の徳川御三家に次ぐ家柄を誇り葵の御紋を許された会津藩ほど悲運の藩は無いでしょう 天皇・幕府に対する厚い忠誠心をもって不本意ながらも京都守護職を引き受けながら突然匙を投げた徳川慶喜に梯子を外され維新の仕上げの標的にされたのです 天皇の錦の御旗を掲げた薩長両藩を主力とする官軍の威令の為に賊軍の汚名を着せられ生贄とされたしまったのです➡ |
長い日本の歴史の中で都市一つがこんなひどい目にあったのは會津若松だけでしょう BC586年ユダヤ人一国がバビロニア王ネブガドネザル2世によってバビロニアの地に連行され首都イスラエルは破壊されたと言う世界史で習ったあのバビロン捕囚に似ているここが会津藩士が上陸した安渡(大湊)である 山は 斗南藩 3合扶持が 足らぬとて 炊かぬ前から 釜臥の山 と狂歌に詠まれたむつ市のシンボル釜臥山で➡ |
上陸記念の碑
➡上の記念碑は鶴ヶ城の石垣に使用されている慶山石を会津若松市より寄贈され飯盛山をモチーフに組み立てられ正面は会津若松へ向いている 藩名は北斗以南皆帝州に因むそうだが そうは言われてもあの太平洋戦争の敗戦によるロシアの侵攻による過酷なシベリヤ抑留にも匹敵していたでしょうか 青森県史にも下北は概して不毛の地なり 風烈しく晴陰たちどころに変じ 草木長ぜず産するもの僅かなる雑穀に過ぎずこの地の者本邦最不幸の民なり と青森人さえ認める寒冷不毛の地だった |