陸奥の おくゆかしくぞ 思ほゆる 壷の碑 外の浜風 山家集 西行
埋もれし 壷の碑 書の上に 残りて床し 外の浜風 西行
陸奥の 外の浜なる 呼子鳥 なくなる声は 善知鳥安方 藤原 定家
陸奥の 外の浜なる うつほ鳥 子は安方の 音をのみぞ聞く 大塔軍記
霧はらふ 外の浜風 せきはれて 月すみのぼる 蝦夷が島山 露色髄詠集 鑁也
陸奥の 外の浜なる 老善知鳥 紅こぼす 露の紅葉 秘蔵抄
やほか行く 日かずを出でて 猶ふむは 外の浜なる 真砂なりけり 林葉累鹿集 長流
清少納言はあの枕草子の『濱は』の項で六っヵ所載せている。『卒都濱・吹上濱(紀伊)・長濱(伊勢)・打での濱(近江)・諸奇濱(但馬)・千里濱(紀州)こそひろう思ひやらるれ』とあり其の真っ先に外の浜を挙げている。地果てる外の浜以外は総て近畿の先進圏なのを見ればその意外性が分かるでしょう。少なくとも平安初期には既に噂はされていたのでしょうが、当時都ではこの浜に他の五ヶ所の濱とは違った特殊な印象を持っていたのではないだろうか。 一般的に夏泊半島西岸から津軽半島東岸一帯を指すようで油川がその中心のようでした。青森県の歴史に曽我物語りの出所として大変興味深い記述がある。『津軽の創始者とも言うべき安藤(東)氏の始祖的位置にある 安日(あぴ) は神武天皇の東征の際大和生駒で破れ戦死したと言う長髄彦の兄といわれる人物だが、其のとき彼は一族もろとも外が浜に追放されたとあり其の子孫が蝦夷となった』とある。安日は今岩手県に安比高原 安比スキー場等に其の名を留めている。又外の浜はいろいろなな本に卒塔の浜等と記されている。卒塔婆の卒塔である。卒塔婆とは死者の供養と追善のため墓の後ろに立てた細長い板の上部を塔の形切り込みをつけ梵字で経文記したものとある。さらに不思議なのは当初外の浜と言うから日本海に面した津軽半島西側の浜辺の事か と思っていたがその内側の陸奥湾の浜辺である。内にあっても外が浜には何か意味がありそうである。中世には夷嶋(えぞがしま)流刑という国家的流刑があり執行官は『蝦夷の沙汰』と呼ばれたが後に『蝦夷管領』が正式名称となる。夷嶋は勿論であるが出発地の外の浜も日本の果て 地の果て 心の果てるところであり すこぶる恐怖の対象の地であった。いわば大和の国の外 現世の外 娑婆の外 心情の外への出発地だから外の浜と呼ばれたのかも知れない。この様に外の浜は日本の北の境界の地としての認識のせいで記憶されたのではないでしょうか。(平成15年6月16日)(青森県の歴史 山川出版社・国語大辞典 角川書店・西行 岩波新書・清少納言枕草子抄 日本図書・青森県の歴史散歩 山川出版社) |
油川港は外の浜の中心であり中世には日本海航路の終点として栄えた 元は南部領であったが津軽為信に攻略され南部の旧い勢力一掃のために青森湊を開港し其の発展を図り油川に制限を加えたために繁栄は急速に衰えた |
外の浜
(卒塔の浜)
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