なんと言っても後世外が浜を知らしめたのは西行の『・・・奥ゆかしくぞ思ほゆる・・・』の歌によってだろう。彼は2度も陸奥に来ている。27才(1149年)と69才(1186年)の頃である。2回目69才の陸奥行きは平重盛によって焼失した東大寺再建の資金集めのために親戚筋に当たる平泉に来たのだが、27歳の『みちのく一人旅』の動機ははっきりしない。彼は23歳の時に出家した。その理由はいろいろあるのですがその一つにあげられるのがなんと驚くなかれ、時の治天の君 白河上皇の養女で後に鳥羽天皇のお后になる待賢門院璋子(たまこ)との恋愛関係と云われている。たまちゃんは西行より17才も年上なのにその妖艶なる美貌は抜群だったらしい。チャーミングゆえに50歳も離れた養父である上皇に小さい頃から可愛がられ性的指導を受けてきた彼女は男性関係も相当奔放で公式記録にも2名の関係した男性の名前が知られている。一方西行は上皇・法皇の院を警護する北面の武士で腕は勿論の事、歌や学問に長けている事はもとより眉目秀麗、体格堅固の超エリート集団の一人であった。然も20才前後の初々しい青年達は宮中の女房や女御の憧れの的で恋愛関係も多数あったようです。それは彼の恋の歌が花の歌の次に多く約300首にのぼるという(白い道 講談社 西行 岩波新書)事からも理解できる。17歳位で北面の武士になったとして出家したのが23歳とすれば僅5〜6年の間に作ったことになる。まさか出家してからは恋はしないだろうからその間300首の恋心を詠むには相当数の女性関係があったことは事実だろう。それが多情の色好みの西行のイメージとなっているのです。そんな西行がとうとう永遠の理想の女性たまちゃんと密会に成功した。
外が浜 其の2 |
西行はその感情を詠んだのが下記の歌だ
知られざり 雲居のよそに 見し月の
かげを袂に 宿すべしとは
おもかげの 忘らるまじき 別れかな
名残を人の 月にとどめて
雲居・・・宮中・宮廷 別れ・・・後朝の別れ・二度と会えぬ終の別れ
密会してみてやはりテクニシャン熟女たまちゃんの魅力の虜になってしまった純情青年だが、相手は天皇の奥様である。当然叶わぬ恋である事は百も承知の義清(のりきよ)ではあるが若さはそれを我慢できないのである。世を儚んだ彼はお坊さんになってしまったのである。総てを捨てきった一遍に指摘されたように忘れようとして忘れられない 捨てようとして捨きれず未練たっぷりの彼は4年も畿内をうろついていたのだ。そしてついに行き場のない傷心の彼は、北へ向かいみちのく一人旅をして地の果て外の浜までやってきた 云うのが事実ではなかろうか。今の演歌の世界でも小林 旭の北帰行 石川さゆりの津軽海峡冬景色 都はるみの北の宿等を始め傷心 失恋 失望 絶望 挫折を癒す行き先は、同じ本州の果てでも山口県ではなく1000年も前からやはり北の陸奥でありそれも津軽であり海峡の出発地外の浜が相場だったのではなかろうか。それは昔も今も行き詰まった時に故郷に帰る心境に似ていて、外の浜は日本人の心の故郷であり、北への帰巣本能は北方民族の末裔なのかも知れい。
右上 蟹田町の観瀾山から見た蟹田の外ヶ浜 東津軽郡外が浜町蟹田
右下 太宰治津軽の一節の碑 観瀾山
彼はひとを喜ばせるのが何より好きであった
彼の作品の正義と微笑から井伏鱒二が選び佐藤春夫が筆をとった碑 |
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