上 蟹田駅のホームにある 太宰治津軽の一文『蟹田ってのは風の町だね』油川から竜飛岬の途中にある外の浜蟹田町は風をコンセプトにしている
その前日には西風が強く吹いて N君(中村貞次郎)の戸の障紙をゆさぶり 「蟹田は風の町だね」と 私は例の通り独り合点の卓説をはいたりしいたものだが 今日の蟹田町は前夜の私の暴論忍び笑うかのように おだやかな上天気である。そよとの風もない 太宰 治 津軽より
この2つの写真は外が浜を見下ろす丘(観瀾山)で他に太宰治の作品 正義と微笑 の一節が彫られた碑があった 蟹田町を始め津輕は太宰で町興しなのです
上中 イタリア館 油川
右の上下2つの写真は当時油川の繁栄を偲ぶ数少ない史蹟イタリア館だ イタリア人ジュセップ ファブリーが陸奥湾の鰯の良質なのに目をつけ大正5年(1916)ここで鰯の油付け((アンチョビー)缶詰工場➡
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右 外が浜の中心油川は当時は青森一の商業・経済の中心でり交通の要所でもあった 左の写真はここが羽州街道の最終地点の碑であり又ここから三厩 竜飛 北海道松前に至る松前街道の起点の碑である。羽州街道は福島県伊達郡桑折町を起点とし奥州山脈を縦断するようにして青森にいたる約500kmの街道である 奥州街道とともに陸奥の二大大道である 油川は別名大浜とよばれていた ここから外の浜を右手にみて約60kmの三厩までの松前街道を北上するが道路と海岸の間に民家が途切れなく続いていて コンクリートや護岸のためのブロックで私が期待していた美しい海岸線や砂浜 松原が見れなかったのは残念だった
➡ ブランコ・イタリアン缶詰会社を設立した 事業は成功し赤レンガの西洋館 自宅と工場・事務所を当時20万円で建築し2頭立ての馬車で通勤してそのハイカラさに町中が驚いたという 然し大正7年7月4日悪性感冒の為他界したが今でもイタリア館と呼ばれ市民から親しまれているようだ
右中 明誠寺にあるファブリーの墓地
彼の墓地は近くの明誠寺にあるが多少破損があるのは残念だ(説明版) |
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