陸奥の 千引きの石と 我が恋は かなはすをりに 中や絶なん 読み人知らず
名にし負う 千曳の石に あとしめて 動きなき世と 神や守らむ 篤焉家訓 南部 重信(盛岡藩29世)
物云はゝ 宮居の松に 問ふてまし 引手になびく 石の心を 新選陸奥国誌 南部 重信
千引きとも 萬引きとも言へ 引かましを 君のなさけの つなでならずば 読み人知らず
をしからて なげもやられぬ 我が身こそ 千引きの石の たくひなりけん 永久百首 藤原忠
音にきく 千引きの石の 跡しめて けふ陸奥の 昔をそ思ふ 新選陸奥国誌 南部 重信
わが恋は 千曳の石に あらねども 逢ふばかりなき ねおのぞみなく 夫木和歌集 大蔵卿行宗卿
舟しあれば 千引の石も うかぶてふ ちかひの海に 浪たつなれめ 兼好法師集 兼好
きみが代は 千引の石を くだきつつ 万代ごとに とれどつきせぬ 堀河百首 顕仲
この千曳神社の伝説も中々魅力的なのです。青森県が誇る知的伝説 壷の碑(いしぶみ)の目と鼻の先にあるこの神社は 人知れず森の中に佇んでいたように思えた。余り知名度もなく人の訪れも少ないようである。この碑と神社は東北町と天間林村の堺にあり壷の碑は東北町 千曳神社は天間林村に属している。共に国道4号線の傍らにある。この神社の凄いところは明治9年明治天皇東北巡幸のおり其の伝説の裏付けのため宮内庁が青森県に依頼して神社の下を発掘調査させた事である(東奥日報1994年3月9日)。それによると『6月13日宮内庁から依頼があり、千曳神社の社殿を5間ばかり右方に移してその下左右に長い大穴を穿ち、さらに社殿の前後左右を4ヶ所ほど掘ったが碑らしきものは遂に出土しなかった。』と甲地村史に記載されているという。当時の内閣顧問だった木戸孝充(桂小五郎)らがその1カ月後に発掘現場まで視察に来て痛く失望したと言う。明治維新で急速な近代化を図っている途上とはいえ伝承上の石の為に明治政府までが出向くとは何とものどかな時代だった事かとおもはず苦笑させられた。それだけ壷碑・日本中央碑伝説きさが分かるのです。東北ふしぎ探訪(無明舎出版)の記述によると元々日本中央碑は大和朝廷軍の戦勝記念碑ではなく、遠く地元の蝦夷の建てた領界不可侵か又は国の中心の標石だったのではないかとし、第3代征夷大将軍文屋綿麻呂が深く青森に進駐する事になり不要になった石は多くの人が動員されて別の場所に曳き運ばれ地中に埋められた。そしてその上に神社を建ててこの地が大和朝廷のものである事を神の名の元に示したのではないかとも書かれている。大勢の人に曳かれたので千曳神社・千曳石の名がでたのだろうか?元々地元の人には壷の碑の名称よりも千曳石伝説のが一般的だったとも言う。宮城県の壷碑の壷の意味は不明だがここ青森の古代が都母(つも)の地であり現在も坪の地区名からしてどうも青森に分がありそうな気がしてならない。
(参考 東北のふしぎ探訪 無明舎出版・東奥日報新聞記事・七戸市史・青森県の地名 平凡社・青森県の歴史散歩 山川出版社・文選つぼのいしぶみ東北町教育委員会 ) |
青森ヒバに覆われた千曳神社参道入り口 江戸時代は幕府巡検使の参拝所で南部領では順路第一の地位にあった 由緒板には大町桂月の歌もあった
石文の 跡をさぐりて 思はずも
千歳の檜葉に 逢ひにける哉 |
千曳神社
(千曳石)
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