其の伝説を新聞に記載されたまま載せておきましょう。その概要は『陸奥の甲斐守某がの地行所である壷の碑というところに千引き石という巨石があった。この石には魂があり、人を捕って困るのでこれを捨てようとしてその地を治める甲斐守に言って各戸から人夫を召集した。その村に若くて貧しい女がいたが男手のいない家があった。彼女は男の中に女一人混じって人夫に出る事を悲しみ村を出る決心をした。この女には以前から契りを結んだ男がをりこの夜も忍び通ってきたが女の憂いを聞き、自分が千引の石の精である事をあかしたのです。彼は喩え千人に引かれても動かぬがそなたが引いたなら簡単に引かれようと約束をしたのです。その日がきて石の精が云ったように、千人の男が引いても石は微動だにしなかったが、彼女が一人で引くと巨石は軽々と動いた』と言う。爾来村人は彼女を観音の化身としてあがめたという。彼女の名は『つぼこ』というのでした。又青森県の地名(平凡社)では『俚俗伝曰明神ハ石ノ精ニテ美男ニナル 壷子トイヘル女ニ通フ。壷ハ父母モナク独住ノ女ナリ。或夜男来暇乞也トテ落涙ス。依テ壷子何故ト問ヘハ我は石ノ精ナリ。明日土中へ埋候ヨシ。タトヘハ数人ニテ引共動ク事ニ非ス。其方出テ引ナラハ心ノ侭に引ヘシト云。翌日大勢ニテ彼石ヲ引ケレ共不動。村中出テ引ケ共猶不動。其村ニ不出者壷子許也。村ノ者壷子ヲ呼出シ引セケルニ心ノ侭ニ引依テ壷ノ石ト云。明神ニ祝堂ノ下七尺許掘。右ノ石ヲ埋ト云。女ノ居所ヲ壷村ト云。此村天満館村ノ小名也。千曳明神アリ野辺地ト七戸ノ堺ナリ。千曳明神ハ甲地村ノ内ノ小名ナリ』とある。この石を千曳石と云い、当神社に埋めたと伝えられているのだ。壷の石と千曳の石がごちゃごちゃになりいろいろな伝説 仮説 風説を生み出したようなのです。 実は万葉集巻4−0743
                
わが恋は 千引きの石を 七ばかり 首にかけむも 神のまにまに 
                       (私の恋は千人引きの石を7つも首にかけられたように苦しい恋だ 神の御心次第だ)

とあるのです。この千引きの石は黄泉の国と現世を隔てる巨石であるという。この石は有史以来から存在する石らしい。逆に袖中抄の中では壺碑を4〜5丈(約10m)の巨石と書いてあるにも拘わらず数多い歌の中にはそれらしい歌は一首もないのである。4〜5尺の誤記説も有力だ。誠に歌枕とは大人の童話のようで私を童心に帰してくれる心地なのです。ところでこの神社の創建は大同2年〔802年)坂上田村麻呂と伝えるが彼は青森までは来ていないのだ。来たのは3代目征夷大将軍文屋綿麻呂である。(平成15年6月4日)

参道入り口の千曳神社の碑


国道の傍らにある壷碑と違い少しそれた奥まった所にある神社は見過ごされていて淋しげだ
 
千曳神社 
由緒と伝説の神社にしては余りにも貧弱なたたずまいだが 宮内庁が本気で上記の伝説の発掘調査したユーモアを禁じえない所だ
  奥州街道間道にある追分石 右千曳道 左野辺地道 真ん中千曳神社とある 左側面には壺村 中村半?と?中次?と二人の名前が掘られている 右側面位は弘化紀乙巳 六月十五日と鮮明に彫られている



千曳神社 其の2