壺の碑はこの保存資料館の中に安置されている 現在ここは日本中央の碑歴史公園として整備されている 然し殆ど人家はなくご覧のように山林と畑である  

右が源 頼朝 左が阿仏尼の歌の碑 公園内
右上 八巻氏は昭和40年代 電力会社勤務時代に探した碑は草むらの中に立っていて探すのに苦労したそうだ 右の写真は碑が保存されるまで粗末な小屋の中にあった跡である 現保存館から100m程はなれている所に置き石があった

 


現在の保存館から少し北上して千曳の信号右折すると県道8号線にでる これは東北本線とともに八戸に至る道である ここに東北本線と県道8号線が交差する無人の千曳駅がある  この東北本線が通る谷底から世紀の発見があったのです  ここが川村種吉さんが碑を発見した川底である 道路より大分下の低湿地帯で人目のつきにくいところではある 壷の碑は現在の保存館で発見されたのではなく数キロ離れたここ赤川上流の石文地区の低湿地帯の林の中で半分埋もれて発見されたのです  石文地区の赤川の谷底で碑は発見されたのです
 金子兜太の句碑
 壺の碑  1200年の風雪にたえ今 多くの学者が勝手な論争を主張してるのをよそに立派な保存館の中でどっしりと往時を独り偲んでいるように見える壺の碑 体長150cm 幅70cmは多賀城の壺碑に比して実に素朴でいかにも手彫りの文字に真実味がある 果たして誰がどんな目的で日本中央と彫り込んだのでしょうか?興味は尽きない
義経北行伝説では義経がこの碑を見て
 三熊野の つづく小山の 石文を 
      見るにつけても 都恋しき

詠んだと伝承されているが勿論出典不明である 三熊野だからここ壺の碑を意識してはいないでしょうが石文の文字が出ると私はどうも壺の碑につなげてしまう程この石文は気になる存在なのです 素人の私ですが都母から坪、そして壷への流れは自然だが突然多賀城で見つかった石碑文を見てこれが噂の壷の碑としたのには無理がある様だ 国文学者大槻 文彦氏(水沢出身の蘭学者大槻玄沢の曾孫)は壷の碑は『長く土中に埋もれていたと伝えられて今は存在せず ただおくゆしくのみ思われていたものが突然多賀城で碑が掘り起こされたため、陸奥で古碑と言えば「つぼのいしぶみ}とだけ思い浮かべて歌人や連歌師などが古書も深く調べず軽率に壷の碑と思い唱え出したころから混乱が起こった』と書いている

右が西行 左が藤原顕昭の歌の碑 公園内 青森県上北郡東北町家ノ下
左 碑が発見された谷底 赤川上流湿地帯 東北町石文地区の県道8号線八戸野辺地線沿いの赤川の湿地に20mほど下る         
壷の碑 其の3