当たり前の事だが最果ての地津輕の記録は少ない。 青森は延長5年(927)の延喜式でも郡制はなく地図にもないどうでも良い地だったのです。 つまり平安中期になっても未だ有っても無くてもよい地であり平安王朝文化が花開いてる時にも未だ茅葺竪穴住居の時代だったのでしょう。 養老2年(718)8月条に『出羽及び渡島の蝦夷が馬1000疋を献上して授位された』と続日本紀にある。又民謡津軽じょんがら節 津軽よされ節 津軽小原節を『津軽三つもの』と言い、それに津軽あいや節 津軽三下がりを加えたものが『津軽五大民謡』と呼ばれる。さらに十三の砂山 弥三郎節などペーソスとノスタルジーを秘めた津軽民謡は、打楽器の様な津輕三味線と共に実に心打つ旋律です。それはまるで逃げ場のない滅びゆく蝦夷の最後の呻きか鎮魂歌の響きなのかも知れない。陸奥国には津軽半島の三厩・小泊、夏泊半島の滝尻村・大間崎・茂浦、又外が浜・上磯・下磯には18世紀の近世まで狄村が存在し蝦夷が住んでいたと津軽郡之絵図や津軽歴代記類にあり『外浜之狄爺那(シャモ)ニ仕』と記されている。又『津軽ゑぞとて蝦夷の住所あり、外国者ゆえ当国の人縁組をなさず』等と津軽見聞記にも見えるのです。天武天皇5年以前には東北は東山道・東海道・北陸道の道のずっと奥だから道奥国と呼ばれたが、その後陸奥国と表記された。九世紀前は『みちのおくのくに』だが万葉集の時代には『みちのくのくに』九世紀末古今集では『みちのくに』となりその後『みちのく』となった。陸奥(みちのく)は東北全体の汎称だが陸奥(むつ)は青森県の呼称である 漢詩が盛んになると陸奥国を唐風に陸州と表現したが和風でよむと『みちのく』となる。更に陸は『ろく』とも読まれそこから『六』と書かれ『六州』と表現された。 そこから和訓で『むつのくに』と読まれ一般化して青森の旧称となったようだ。八甲田山の西津輕半島の最北三厩から南は秋田の境矢立峠碇ケ関迄、津軽程魅力的風土と歴史を有する所は無いでしょう。古来津軽は都加留 津刈 東日流 つかろ 通賀路等と記されれきた。津軽が歴史上に現れた最古の文書は655年日本書紀斉明天皇元年7月11日条に『難波の朝にして北(北は越)の蝦夷99人、東(東は陸奥)の蝦夷95人に饗たまふ ・・・仍(なお)柵養の蝦夷9人 津刈の蝦夷6人に冠各二階授』とある。 |
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越の国の蝦夷でもなく陸奥の蝦夷でもない第3の蝦夷が津輕の蝦夷として別格扱いされてる。だから正史日本三代実録には『津輕が賊に同ずれば大兵といえど制しがたい』『津輕夷俘はその党種多く幾千人か分らない。天性勇壮で常に習戦してる もし敵に廻さばその勢いは止難い』とその実力を認めている。その次がやはり日本書紀斉明天皇四年から六年における阿倍比羅夫の北征でである。この時『津軽郡領』が置かれ、津軽郡大領馬武に大乙上 小領青蒜に小乙下の冠位を授けた事が記載されている。そこには有間浜(ありまはま)渡嶋(わたりしま) 胆振?(いぶりさえ) 肉入籠(ししりこ) 問菟(という) 後方羊蹄(しりへし) 弊路弁嶋(へろべしま)等の現地名が記載されていてなんとも魅力的且つ想像を駆り立てる所なのです。前述の通り津軽の蝦夷は中央政府からも一目置かれていたようなのです。これも659年日本書記斉明天皇5年7月3日の条に『・・・蝦夷に三種あり 遠き者を都加留と名つけ 次の者をば麁(あら)蝦夷と名つけ 近き者をば熟(にぎ)蝦夷名く。今此は熟蝦夷なり。・・・』と遣唐使が唐の皇帝に蝦夷を見せて説明している一説がある。定期的に朝貢する蝦夷が熟でまつろわぬ蝦夷が麁である。そして彼等二種とは別枠で名指しされていたのが都加留である事は大和朝廷も彼等に一目置いていた証だろう。658年(斉明天皇4年)阿倍比羅夫の秋田・能代・男鹿第一回北征の際彼は都加留蝦夷に根回しをしていたか、或は背後から突いて挟み撃ちの作戦を取ったらしい。そのため秋田・能代蝦夷の首領恩荷はあっさり降参しているのです。それ以前景行天皇期(71年〜130年)常陸風土記逸文には『福島県棚倉町八槻の蝦夷土蜘蛛が日本武尊の猛攻に対して津軽蝦夷に援軍要請』の記述がる。それだけでも勇猛なる証拠だが注目すべきは福島の蝦夷には事もあろうに土蜘蛛などと蔑称呼ばわりだが青森の蝦夷にはキチット津軽蝦夷と本来の呼び名で記している事なのだ。それだけ大和政権は当初から畏敬の念があったかも知れない。日本後紀弘仁5年(814年)『津輕の狄俘の野心は測り難し』とあり遠くにあっても最大のストレスは津軽蝦夷の動向だった。この様に津軽は阿倍比羅夫以前から大和朝廷と親交があったとは実に興味深い。
(参考 東北ふしぎ探訪 無明舎出版 青森県の歴史 河出書房新社) |