720年(養老4年)正月23日条続日本紀には『渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男等6人を靺鞨国に遣わしてその風俗を観しむ』とある。解釈は色々あるのですが『渡嶋と津軽の津の司(港を管理する役人)の諸君鞍男以下6人を日本海を渡り大陸沿海州靺鞨国の風俗・習慣を視察させた』と言うのです。陸奥の東北38年戦争(774年宝亀5年〜802年弘仁2年)の50年も前にすでに出羽・津軽では外国視察をしていたとは誠に驚くほか無い。尚諸君鞍男は朝廷の下級役人で蝦夷ではない。津軽には神話時代の津軽の歴史記述したと云う『東日流外三郡誌』なる書物がある。五所川原市在住和田喜八郎氏が昭和23年に自宅の改築の最中天井裏から落ちてきたと云う所謂『和田家文書』だが五所川原市史には一切その記載が無い。つまり世間では認知されない偽作として正史には載せられないのだが大人のフィクションとして津軽創世期を空想するのには中々面白いのです。例えば『大和の邪馬台国の長脛彦と安日兄弟が神武天皇の日向族に破れ逃れてきた所が津軽で、その後東日流王国を創り安日王は長脛彦を副王とし津軽山中の石塔山を居城と定め阿蘇辺族・津保化族・宇蘇梨族・怒干怒布族等を統合して荒覇吐族と称し巨石信仰の荒覇吐神本山とした』と中々大胆な発想なのです。そして市浦町十三湖の北部にあるオセドウ遺跡こそ長脛彦のお墓であると云うのです。又津軽を語るとき阿倍比羅夫は避けて通れないのです。津軽の日本海側沿岸には比羅夫にまつわる伝説の地が沢山あるのも津軽の魅力でしょう。深浦町には日和見山(後方羊蹄見山) 吾妻の浜(有間浜)比羅夫お手植えの銀杏 鰺ヶ沢町には比羅夫腰掛石 市浦町十三湖(有間浜)等詳しく調べればもっと存在するはずだ。又鰺ヶ沢町赤石には長脛彦の墓と伝える将軍塚あるとの事でしたが地元の郷土史家の話では赤石川氾濫で流され市浦町のオセドウ遺跡に移されたと躊躇なくリアルに澱みなく話すのは微笑ましい。更に津軽といえば津軽為信公を忘れてはならないでしょう。彼こそ津輕藩初代藩主だが津輕藩の始祖は彼の5代前の南部(大浦)光信公である。1492年(延徳2年)南部一族であった彼はかって蝦夷地へ追いやった安東氏が再度津輕奪回を図って侵攻したので西の押さえとして岩手県下久慈から西津軽郡鰺ヶ沢町種里へ派遣された事に始まる。僅か36騎の武将で近隣の土豪を押さえ種里城を築いた後岩木山を越え、鼻和郡(現岩木町)に出て大浦城を築城(1502年文亀3年) 嫡子盛信を城主とし大浦を名乗らせ弘前進出の足がかりとしたのである。その後政信・為則と続き為信の時に津輕統一を果たす事になる。為信は大浦城を根拠に本家筋の三戸南部の晴政と信直の家督争い・内粉・領国争いの間隙を縫い安藤氏や南部氏に滅ぼされた浪人や武士をかき集めて反旗を翻し、南部氏の津輕郡代石川城石川(南部)高信を攻め自害させ津輕統一めざした。今に至るまで津輕と南部の確執はこの辺りが原因なのだろう。その後百沢街道沿いの大浦城は戦国城下町としては小さく1594年(文禄3年)奥州街道沿い堀越に堀越城を築城した。彼は17年間ここを居城に津輕統一の土台とし大浦氏から津輕氏へと名乗り、2代目津輕信枚が1610年(慶長15年)弘前城を築城し北奥の戦国大名として成長していくのです。南部氏は糠部入府以来土着民を『夷』視してその反乱を『夷の蜂起』とし安東氏との戦いも『征夷』戦とした。同族九戸政実の乱では彼を『東夷の雛夷』と呼び古来からの中央政権の体質を利用し己の行動を正当化した節が見える。又津輕氏も『・・・是に於いて百戦百勝、武威大いに振るい異域遠島に公の勇猛を畏れざるはなし ・・・あまつさえ北敵(狄)を塞ぎ則ち身を戦場に忘るることなく武勇の名を高め、当世に於いて衆皆帰服する所也』とある。最北の地陸奥在住の大名すら『北狄の押さえ』つまり征夷を理屈に領土拡大を図った。所詮南部も津輕も元を正せば甲斐源氏新羅三郎義光の末裔にあたり本質的に蝦夷蔑視の思想を持っていたのでしょう。陸奥とは何と悲しい国なのでしょう。最後に余談ながら『津輕じょんがら節』は、慶長年間(17世紀)津輕為信に滅ぼされた千徳政氏(浅瀬石城主)の墓を、残党狩りに来た兵が暴いた非道な行為に抗議して常縁と云う僧が浅瀬石川に入水した。以後人々は其の河原を常縁河原と呼ぶようになり後に上河原(じょうかわら)と縮まってじょんがらとなり千徳家の霊を弔うために歌われだしたものとの事である  津輕よされ節は「夜去れ・世去れ」であり津輕を襲う凶作・疫病の連続から離農・餓死・出稼ぎ・娘の身売り等が相次ぎ、こんな世の中早く去ってくれとの願いから越後瞽女(三味線を弾く盲目女の旅芸人)からボサマ(盲目男の旅芸人)へと伝わった悲しい身上話の口調を取り入れたものらしい。
(平成18年6月30日)  (参考 知られざる東日流日下王国 八幡書店・ 新青森市史資料編 弘前市史・青森県の歴史 河出書房新社・五所川原市史 津輕の歴史と文化を知る 岩田書院 2009年ねぶた祭り 企画集団ぷりずむ 執権時頼と廻国伝説 吉川弘文館・東北ふしぎ探訪 無明出版社・青森県歴史散歩 山川出版社 )
      津輕 其の2

画像は十三湖畔に立つ陶板の碑の写真です 十三湊遺跡は、中世北日本における大規模な拠点港湾遺跡です。日本海に面した本州最北端の津軽半島にある十三湖岸に位置します。戦国期の文献「廻船式目(かいせんしきもく)」にみえ、北日本に勢力を伸ばした津軽の豪族安藤氏が拠点を置いて繁栄した遺跡の実態が明らかになった。 遺跡の規模は南北約2km、東西最大500mで13世紀に成立し15世紀後半に遺跡が衰退した後には、遺跡地の大半は開発されることもなく保存状況は極めて良好であり、これをとりまく十三湖や日本海の環境・景観も特に優れています。我が国において重要な港湾を伴う大規模な遺跡として類いまれな事例といえます。 遥かに霞む三角の山が岩木山で手前が市浦の町 現在は五所川原市十三となっている  鎌倉時代「日本の三津七湊」の一つに数えられ太宰治をして「真珠貝を浮かべた」ようなものと表現された 九州博多湊にも劣らぬ賑わいで朝鮮半島・中国・渤海国の外国船やアイヌと倭人の交易船で賑わったが安東氏が南部氏に蝦夷へ追放されると急速に衰えていった 正に鎌倉から室町時代幻の中世都市である 日本書紀によると十三(とさ)湊は阿部比羅夫が有間浜に渡島〔津軽半島)の蝦夷を召し聚へて大いに饗宴した所 と言われる所だ 定かでないが中世には安倍貞任の遺児で高星丸を祖をする安東氏(安倍氏季)が福島城(市浦城)を築たと云う説もあるが 平泉文化の中国宋貿易の拠点として大いに栄えた天然の良港である 島根県の宍道湖に似る十三湖には岩木川が流れ込み海水と真水が交じり合うので大粒の大和しじみが抜群に美味いのである 13世紀から14世紀にかけて全盛期を迎えた十三湊だが突然に衰退を始めた いろいろな推測がある 自然災害の地震・津波もあるが永亨4年(1432)の南部氏との攻撃に敗れ十三湊から蝦夷島(北海道)への撤退を余儀なくされたのです 海洋一族の安東氏と祖先を海のない山梨県南部郷にもつ一族南部氏では湊に対する関心が凡そ違ったからに他ならないからでしょう  尚ここが日本書記に於ける阿倍比羅夫が渡島の蝦夷を集めて饗応した有間の浜とする説もあるのです
(参考 青森県教育庁文化財保護課HPによる)