上 善知鳥ア   青森市浅虫山下
 久栗側と浅虫側から見た善知鳥崎の久栗坂古戦場跡(陸奥最後の風雲児大河兼任鎌倉軍による敗走の地) この地は明治9年(1876)明治天皇の東北巡幸までは道がなく梯を架けて渡ったと云う程の難所だった 現在も善知鳥崎の海すれすれの国道4号線である
  野内の関跡
 南部藩に対する津軽藩の番所で秋田藩に対する碇ヶ関・大間越の関津軽藩の三大関所跡である 
天明8年(1788)8月24日 古川古松軒は東遊雑記の中で「青森の東2里野内村といふ所に津軽候の関所ありて往来の人を改める」とある 往時の通行人は月100人程度だったという(説明)  


善知鳥神社 其の7



野内の関跡 青森市野内
野内は奥州街道の宿場町で盛岡南部藩との主従関係を裏切った津軽為信の弘前藩との緊張関係から重要な関だったようだ

下  義経主従の北帰行伝説 貴船神社
野内関の隣にある 義経主従が蝦夷地への航海の安全祈願した伝説を持つ

 多宇末井の梯の面影はない善知鳥ア
竹久 夢路歌碑
浅虫の 海の渚に しらじらと 茶碗のかけら ひかる初秋

いにしへの 津軽少女の まなざしに あおみるひとの 心かなしも
  湯ノ島難所善知鳥ア
奥の海(陸奥湾)を望む浅虫温泉と久栗坂の間に善知鳥崎と云う交通の難所がある(正面の島は湯の島)
 実はここは陸奥話記にある大河兼任が築城した所の『多宇末井の梯(とうまいのかけはし)』と比定されてる所なのです 彼は衣川で頼朝に破れ北上川を遡り敗走して来たがここでの抵抗も空しく兼任軍に利なく壊滅した ただ一人生き残った彼は生まれ故郷の秋田県を経て宮城県栗原郡栗駒町にある義経縁の栗原寺まで逃げ延びたがここで樵達数十人に囲まれ斧で殺されたと云う 頼朝に最後まで抵抗した陸奥の風雲児の由緒ある古戦場跡なのです 又ここは日本書紀の阿倍比羅夫が会見した問菟(という)の蝦夷の地ではないかとの説もある所ですが確証は無い 正面の小山は湯の島と云う小島です
善知鳥アトンネルの目立たぬ隅に  一番 古戦場 とだけ書かれた石碑があった