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左 伝 北畠守親の墓
ご覧の様に田圃の真ん中にある 明治のころには多くの五輪塔があったようだが今大戦時に多くが遺失しその歴史的・資料的価値が低下したという
右 金光上人の墓
青森市浪岡北中野天王
浪岡城址の少し近くに浄土宗開祖法然の高弟金光上人の墓がる この地を遍く布教をしたが建保5年63歳でこの地で亡くなったと云う 浄土教不況の為奥州に下り外が浜で布教ののち浪岡の五本松に庵を結びここが入滅の地とされている
右上 源常林の大イチョウ
青森市浪岡北中野
民謡津軽山唄に歌われた銀杏の大木 案内板によると津軽13代当主藤原秀栄の子が乳母の病死により墓の印に植えたものという 秀栄は藤原秀衡の弟だとい |
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浅虫温泉の碑
本来は麻蒸の湯と云うのだそうです 由来書きによると大地誕生と共に浅虫「湯の河原」に温泉が湧いた その湯で織り布の糸をつむぐのに麻や樹皮を蒸し布を織る縄文の人がいた 元慶4年(880)諸国行脚の慈覚大師が下北半島恐山に霊場を開山後巡教の途中湯けむりに誘われて浅虫で湯浴みしそのお礼に薬師如来像を刻み木地挽山麓の辻堂にこれを安置し村人に温泉の効用を伝えたのが始まりと云う 本来は麻蒸だが火の気の連想を嫌い浅虫と変えたと云う |