北畠氏顕彰碑 北畠累代の墓 青森市浪岡北中野字五倫
浪岡城
は応仁の乱の頃北畠氏により築城された 北畠氏は南朝の功臣親房・顕家父子の子孫で屋形より格式の高い御所の名を以て尊称されていた 16世紀の具永・具純父子は形式だけとはいえ天皇の側近だった 上は伝 北畠氏墓所 中央の北畠累代の墓の碑銘は明治15年明治天皇東北巡行の際太政大臣三条実美の題字により建立された 陸奥国司鎮守将軍とし中世史に名を遺した北畠氏末裔の精神的支柱と云う 

民謡津軽山唄の碑
エァ エデァ 行丘 行丘 ヤェ  源如林の 銀杏の木はヤェ
枝は行丘 葉は黒石ヤェ 花は門外の 城に咲くヤェ 実は御城の 御典殿ヤェ

行丘=浪岡? 浪岡城址の少し離れた所に樹齢1000年の大銀杏の大木がある この大木が民謡津軽山歌発祥の大銀杏と書いてある
善知鳥神社 
其の6
 



 左 伝 北畠守親の墓
ご覧の様に田圃の真ん中にある 明治のころには多くの五輪塔があったようだが今大戦時に多くが遺失しその歴史的・資料的価値が低下したという
 金光上人の墓
 青森市浪岡北中野天王
浪岡城址の少し近くに浄土宗開祖法然の高弟金光上人の墓がる この地を遍く布教をしたが建保5年63歳でこの地で亡くなったと云う 浄土教不況の為奥州に下り外が浜で布教ののち浪岡の五本松に庵を結びここが入滅の地とされている
右上 源常林の大イチョウ
  青森市浪岡北中野
民謡津軽山唄に歌われた銀杏の大木 案内板によると津軽13代当主藤原秀栄の子が乳母の病死により墓の印に植えたものという 秀栄は藤原秀衡の弟だとい

浅虫温泉の碑 
本来は麻蒸の湯と云うのだそうです 由来書きによると大地誕生と共に浅虫「湯の河原」に温泉が湧いた その湯で織り布の糸をつむぐのに麻や樹皮を蒸し布を織る縄文の人がいた 元慶4年(880)諸国行脚の慈覚大師が下北半島恐山に霊場を開山後巡教の途中湯けむりに誘われて浅虫で湯浴みしそのお礼に薬師如来像を刻み木地挽山麓の辻堂にこれを安置し村人に温泉の効用を伝えたのが始まりと云う 
本来は麻蒸だが火の気の連想を嫌い浅虫と変えたと云う