凍死軍人英霊の碑(左)と明治天皇御製・昭建皇太后御歌の碑(右)
明治天皇 埋火に むかへと寒し ふる雪の したにうもれし 人を思へば
昭憲皇后 埋もれし 人を惜しみて 青森の 雪をいかにと 言ぬぬ日そなき
下 凍死軍人英霊の碑の前に並ぶ山口少佐以下士官10名の墓標  
 准士官・下士官94名の墓標 この向かいには同じく95名の墓標が並ぶ
 市指定史跡天然記念物幸畑陸軍墓地  青森市幸畑阿部野
御存知青森歩兵第五連隊雪中行軍遭難者199名の墓地である
左 国指定史跡浪岡城
浪岡城は浪岡北畠氏の居城である 村上源氏を祖とする公家の名門北畠氏は初代雅家が後嵯峨・2代師親が亀山・3代師重が後宇多・4代親房が後醍醐と代々各天皇家の和漢の学問指導者であったが鎌倉幕府打倒の建武の新政以降は軍事指導者として南朝の正当性を最後まで擁護し続けた 親房の子陸奥守顕家は奥州の多賀城から北朝の足利尊氏を遥か河内で追討して一時九州へと敗走させる実力を有していた 然し足利尊氏が九州で再度挙兵するに及び楠 正成をはじめ南朝方は総崩れとなり顕家・顕信兄弟も南朝の砦福島県の霊山城・宇津峰城が落城し敗走した 浪岡北畠氏はその顕家または弟顕信の末裔とされている 京を思わせる公家の雅な町は浪岡御所とも呼ばれたが最後の頭首10代顕村が戦国大名津輕為信により滅ぼされその命脈を絶たれた

左下 
北畠古城祉碑 
城内にある小さい文字が種々彫られてるが読めない


善知鳥神社 
其の5
 


左中上下 雪中行軍遭難の碑と仮死状態で立ったまま遭難していた
後藤辰之助伍長の碑
(八甲田山中) 彼は今もロシアの方を睨んで立っている

 明治35年緊迫する対ロシア侵入を念頭に青森から八甲田を越え三本木(現十和田市)は進軍出来るか否かの雪中行軍を計画した 当初一泊行軍で可能としていた 然し不幸にも当日は北海道旭川市で日本最低温度マイナス40.9℃を記録した低気圧による悪天候に阻まれ総勢210名中は1月23日に出発したが消息不明となった 捜索隊に発見されたのは27日でそこに立ったままで仮死状態の後藤辰之助伍長が発見され初めて199名の犠牲者を出す大惨事であることが世に知れることになった 奇跡的生還者17名の内6名が治療中に死亡・8名が四肢切断し五体満足者は僅か3名であったという