国特別遺跡三内丸山遺跡 青森市大字三内字丸山
遺跡は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました.  国特別史跡の三内丸山遺跡は北辺の地の最高の発展した縄文文化の史蹟で亀ヶ岡遺跡・是川遺跡とともに青森が誇る最高の縄文文化だが 青森が有効求人倍率で日本最下位である今日を垣間見るとそれは文明が一本調子には絶対に進歩しないことを証明した史蹟であり青森にとっては皮肉な史蹟ではあると思う
  寛政8年4月菅江真澄は『・・・此村の古い堰の崩れた所から縄形・布形の古い瓦或はかめの壊れたような形のしたものを発掘したといってあるのを見た 陶作りがここに住んでいたのだろうと云っている 又人の頭・仮面などの形をした出土品もあり又頸鎧(みかべのよろい)に似たものもあった・・・このようにこのあたりは最も古跡に富んだ所である 今人が行き来する豆が坂まむか坂であってかの蝦夷の津輕大領馬武などが住んでいたのもこの辺りであろう 三内も昔は寒苗の里であったのが今はこうなったのであろうかなどと連想された面白かった(菅江真澄遊覧記 兜ス凡社)』と書いている  寛政8年と言えば1796年頃である  凄いのは日本書記斉明天皇4年7月4日の条には『渟代郡大領沙尼具那に小乙下、小領宇婆左に建武、勇敢なる者二人に位一階 津軽郡大領馬武に大乙上、小領青蒜に小乙下、勇敢なる者二人に位一階を賜う』とあるが彼が豆が坂をまむが坂と解し更にそれは馬武からきてると推量するのは実に日本書記の出羽・陸奥の歴史に詳しいと云う事である  その事が三河の人間をして出羽陸奥に永住させる素因だったのかもしれない いずれにしろ以前からあふれ出てた遺跡群は彼等の生活と時間の厚みが想像される

大きい・・・巨大である7haの面積に4万箱の出土遺蹟ですべて一級品でまだ全体の20%しか解明されていない   
多様・・・新潟のヒスイ・岩手県の琥珀・秋田県のアスファルト・北海道・長野の黒曜石など北海道から日本中部までの広範囲に及ぶ
長い・・・存続期間が縄文前期から中期の1500年間に及ぶ  つまり平成からさかのぼる事古墳時代までの遺跡と思えばそのその凄さが分る  
多い
・・・出土遺蹟物の物量・情報量が膨大で質量ともに一級品 青森県全部が毎年発掘す量の40年分の量がここ三内丸山遺跡からの出土である

 津軽海峡冬景色の歌碑 
青森港青函連絡船のメモリアルショップ八甲田丸の前にある石川さゆりさんの津軽海峡冬景色歌碑
 前に立つとメロデイーが流れます 九州熊本出身の彼女が本州最北青森の歌で73万枚も売り上げ全国区の歌手になったのです 津軽海峡の冬の荒れた波頭をイメージしてるのでしょう
 六本柱建物跡
三内丸山遺跡発見された遺構の内で最も重要視されているのが六本柱の遺構である その太さ・大きさもさることながら柱の穴の間隔・幅・深さがそれぞれ4,2・2,0・2,0mに統一されているという数学的知識や腐食防止のため底の周囲の部分を焦がす科学的知識もあったことである 
善知鳥神社 
其の4


大型竪穴式住居
長さ10m以上の大型建物がいくつも発掘されているがこれはその中でも最大のもので長さ32m・幅10mに及ぶ
 更に一般住民が住んでいたと思われる多数の竪穴式住居や堀立柱建建物高床式建物・環状配石墓(ストーンサークル)一つからは炭化した木材も発掘され最古の木棺墓ではないかとされている
青森市営球場 青森市合浦 
日本のプロ野球で9イニング・27人で終わる日本最初の完全試合はここ青森市営球場で初めて達成されたその記念碑である 昭和25年6月25日 夕方4時に始まったこの試合巨人対西日本戦4対0 巨人藤本秀雄投手 時間は1時間15分という短時間 わずか92球の最小投球で日本では僅か15人しか達成されていない貴重な記録を達成した所なのです