4っつめが人名説 5世紀中期19代允恭天皇の時代 善知鳥小納言安方朝臣と言う公卿がどんな犯罪か知らないが流罪によってこの外の浜のこの沼に辿り着いた。安方は里人に漁猟や農耕のやり方を教えたので里人は安方を神として祀った。その後北荻征討の折阿部比羅夫が来てこの里の平和なのは安方のおかげである と聞きこの事を天子に報告した。これにより安方の罪は解かれ中納言の位を贈られたと言う真しやかな話である。
所でここに出た阿部比羅夫なる人物余り聞きなれない方が多いのではないか。私は 彼は陸軍元帥の坂上田村麻呂以上に海軍提督としての阿部比羅夫の名は知られて然るべき と思っている。彼は越の国(北陸)の国守で斉明紀4年(658年)から3年にわたり 180隻の艦隊で北荻(日本海沿岸の蝦夷)を討伐し日本海沿岸を北上した出羽の国のパイオニアなのです。鰐田(秋田) 渟代(能代) 有間浜(十三湊 津軽) 渡嶋(北海道)は其のときの彼の造営である。それは田村麻呂が征夷大将軍になる139年も前である事にその凄さがわかるだろう。又彼は恐らく日本最初の外国との海戦をした人物だろう。有名な朝鮮半島西岸海域での白村江の海戦で、唐・新羅連合軍に対し百済を援助する為であるが完敗を喫した。それが善知鳥神社の縁起由来に彼の名出てくるのはやはりその偉大さの為であり 又此処青森が東夷北荻の地 つまり日本海と太平洋が一緒になっている証左であろう。『侫武多(ねぶた・ねぷた)』は坂上田村麻呂伝説 『善知鳥神社』は阿部比羅夫伝説と陸奥青森は実に古代蝦夷のロマンが息ずく所なのだ。ところで青森を陸奥(むつ)と呼ぶが東北全体も陸奥(みちのく)と書きもともとは道奥国(みちのおくのくに)と書かれたという(青森県の地名 平凡社)。ややこしいのだ。みちのくの初見は斉明天皇5年〔659年)日本書紀に『道奥と越の国司に位各2偕 郡領と主政に各1階授く』とある。この道奥国の命名は当然東海道 東山道の2つ道の奥 と言う意味で名ずけられたのは当然です。そしてその入り口の国境は分かるが北の奥の方は蝦夷との堺で何処までが国境なのか定かではない 何か不安定な意味を持ってる様な感じがするのだ。南の常陸 下野国境から津軽海峡に北の国境が出来まで実に500年を要したのです。つまり白河の関から北が陸奥だが次第に蝦夷が北に追い詰められ陸奥も次第に北に移動し最後に青森で残ったので青森を陸奥(みちのくーむつ)と呼ばれる様になったのではないか。みちのおくのくにーみちのくのくにーみちのくにーむつのくに と成ったようだ。陸奥国を唐風に陸州と表し和訓では『みちのく』と読む。陸(ろく)=六から六州となりそこから和訓で『むつのくに』となったと言う。むつ(陸奥)といえば青森だがみちのく(陸奥)といえば出羽を含む東北全体の呼称なのだ。こんがらかってきたが青森は蝦夷を色濃く残すロマンの地なのです。
右 善知鳥神社と境内裏手にある安潟の名残の池
善知鳥村は往時戸数僅か60戸ばかりの魚寒村であった 漁船が風波の避難に適した入江から安潟と呼ばれたとも云う 池の中にある弁財天が神社の始まりと云う 当神社は第19代允恭天皇の御世善知鳥中納言安方が天皇の怒りに触れこの北国の地に流され夷人山海の悪鬼を註罰平定してこの地を治めその神願霊あらたかなる神祀った事に由来するとか 阿部比羅夫や坂上田村麻呂の伝説もある
善知鳥神社 其の2 |
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