霊山全景 玄武岩質の奇岩怪石が断崖をなしている
あぶくま山 其の2 |
花将軍 公卿陸奥守鎮守府大将軍北畠顕家公像
この草深い霊山の里が奥州南朝の拠点であった事を物語る |
国司北畠顕家が居住した館跡 |
上 御祭神は 贈正一位大納言北畠親房・鎮守大将軍陸奥大介北畠顕家・鎮守府将軍陸奥大介北畠顕信・大納言陸奥国司北畠守親である 明治天皇の東北巡行の折建武の中興の功績によりここ国府のあった霊山に明治14年神として祀られたのです 霊山は北畠親房以降の北畠氏の本拠地だったのです 建武中興15社の一つである こんな田舎に建武の中興と云う維新の英雄がいるのを少なくとも福島の何人の人が知るのでしょうか? 貞観元年(859)比叡山延暦寺座主慈覚大師により開山された霊山寺は西の比叡山とも称され3千数百宇の伽藍を擁したと言う 1333年建武の中興で南朝北畠顕家は16歳で陸奥守として多賀城に下向した 北朝足利尊氏謀反に際して上洛し河内でこれを打ち破り再度東下した その後建武4年1337)多賀城を引き払った陸奥守顕家は義良親王(後の後村上天皇当時6歳)を擁し国府をここ霊山に遷府した 然し同年再び西海より攻め上る足利軍を向かえ討つため後醍醐天皇の再三の要請で上洛したが摂津阿倍野で高師直により21歳で討死す 同年北朝軍により国府霊山城は堂坊もろとも灰燼に帰した わずか1年余りの国府だった 今伊達市霊山町に伝わる濫觴武楽(らんじょうの舞)は多賀城から霊山に入城した時の顕家の武運長久を祈って奉納した剣舞である
花将軍顕家はひたすら南朝の大儀に生き弱冠19才で鎮守府将軍に任じて陸奥を統括し奥羽54郡の兵を率いて朝敵北朝尊氏討伐に関東・東海・近畿へと遠征し合戦の末大阪阿倍野で21歳の若さで散った貴公子である |
上段 霊山城跡の碑
上 義良親王霊山在御蹟祉の碑 親王滞在の記念碑 |