右 ここ福島は明治維新の佐幕派会津藩や二本松藩の忠臣の悲劇ばかりでなく勤皇派の建武の忠臣の悲劇の場所でもある事を知る人は少ない  1338年北畠顕家亡き後南朝方は 弟顕信を陸奥介兼鎮守大将軍として海路奥州へ向け義良親王を奉じ 父親房と共に出奔した 紆余曲折の後一時多賀城で奥州の支配を強めたが北朝への寝返りが相次ぎ 止むを得ず福島の南朝方の伊達氏 田村氏と共にここ宇津峰城に凡そ8年立てこもったが 福島全県下の北朝方の総攻撃に ついに1347年宇津峰城は落城した➡右へ      上 東北勤皇忠烈の跡の碑
   
郡山市宇津峰山南朝の拠点
  別名雲水峰城と呼ばれた宇津峰城址 左の石碑には南朝忠臣の遺跡とあり右の四角の石碑には雲水峰城祉と彫られている 昭和6年文部省指定史蹟 1340年北畠顕家弟鎮守府将軍顕信が城主として入城した 1347年に落城したが1351年顕信の弟守親後醍醐天皇の皇太子尊良親王の子)が守永親王を奉じて奪取するが1353年北朝の猛攻によりついに落城する   
後村上天皇 後亀山天皇 守永親王を祀る石祠の前にある鳥居 

御井戸の清水
➡ その後も顕信は足利氏の内紛に乗じ南朝軍を結集し一時多賀城を奪回したが 翌年北朝方に奪われてしまう その為彼は再び僅に残る宇津峰城に守永親王(後醍醐天皇の皇子尊良親王の子)を奉じ立てこもったが1年後には孤軍奮闘の後再び落城顕家は出羽国に落ち延びたと言う 
福島市の霊山や郡山市の宇津峰山に南朝方の由緒ある遺跡群があるということを知る人は少ない
阿武隈山 其の2A
    宇津峰山頂城跡の後村上天皇・ 後亀山天皇・ 守永親王を祀る3石祀がある ここを千人溜りと呼び2m程の土塁で囲まれている   
御井戸の清水 標高600mの湧き水 14世紀中ごろ奥州南朝方の拠点としてここ雲水峰城に立て篭もった皇族・貴族・武将たちが飲料水にしたという由緒ある名水の為『御』の字が付けられた 標高が対にも拘らずこんこんと水が湧いている