大同年間建立の田村神社 明治以前は大元師明王と呼ばれていた 芭蕉も乙字が滝を見たあとここを参詣している『・・・先ず大元明王を参詣裏門より本実坊へ寄り・・・』と記している 所で芭蕉は須賀川からここまで馬で来ている その前も那須野が原やその後の飯坂からも馬で発っている 芭蕉は奥の細道2400kmをとぼとぼ歩きとうしたように思えるが実際は3分2位は馬だったのではないか? 国道49号線田村町守山の中山交差点にある

田村神社は延暦年中、坂上田村麻呂が東征の途中に立ちより、鎮守山泰平寺を建立し小山田今明王を奉祭して戦勝を祈願したのに始まる 以来、田村家の総鎮守として尊敬をうけ、江戸時代には三春城主秋田氏の藩社となり、その祈願所であった 大元明王必勝祈願・敵国粉砕・国土防衛の神であり軍組織の筆頭の元帥は此処から来てる マッカーサー元帥は事の外有名です
  小野新町駅にある小野篁館跡の碑  
矢大神社扁額 篁宮は小野の篁が祭神
  鎮守山 鎮守とは軍隊を駐留させてその土地を守る事(大辞林)
田村麻呂の父刈田麻呂が蝦夷東征で陸奥に遠征した折ここ安積で遇った女性が阿口陀媛だったのです 彼女は稀代の醜婦といわれた下賤の女であったというが彼にとっては個性的女性だったのだろう 召し仕えの女として子供を生んだと云う 田村麻呂は10才の頃母に父の事を尋ねて父のしるしの品を携えて京都の上り父の元で成人したという 似たような話に前9年の役での帰り道で源頼義が常陸の多気権守平宗基の館に一泊した時に娘を提供された話に似ている その落し種の娘が後の秋田の清原成衡に嫁ぐのであるが往時は接待に娘を提供する事は当たり前だったのではないでしょうか
 
鎮守とは土着の神を沈めて国・城・村落を支配・守護する事 鎮守府大和朝廷の蝦夷を支配する言葉だ
左 鎮守山泰平寺
田村神社と一緒に鎮守山泰平寺
があるが山額に鎮守山との山号である 如何にも田村麻呂縁生誕伝承の地らしく 陸奥蝦夷を鎮め守る鎮守将軍創建の寺社らしい
 
右端 矢大神社由緒略紀 
然し篁は小町の祖父と云う説もあり定かではない 三蹟の一人で花札の絵にもある小野道風は彼の孫に当たる 遣隋使の小野妹子は彼の遠祖であり彼も遣唐副使に任命されてる 同僚正使との不和から仮病を使い乗船しなかった為隠岐島に配流された その時の歌が百人一首にある
わたの原 八十島かけて 
   漕ぎ出ぬと 人にはつげよ
       海人の釣り舟

   あぶくま山 其の3
 
  小野篁を祀る矢大神社 阿武隈山中小野町  寛文9年(1669)に矢大臣山山頂から移された   矢大神社由緒の碑