会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね
                   万葉集 巻14 東歌3426
         友則が娘の陸奥国へまかりけるに遣わしける
君をのみ 忍ぶの里へ ゆくものを あひずの山の 遥けきやなぞ
                   後撰和歌集 藤原滋幹女
枝折して ゆかましものを あひ津山 
        入るよりまどふ 道としりせば

                   古今和歌六帖 伊勢
さざ波や 打ち出の浜に 出し月を 会津の海に うつしてぞ見る
                       吉川 惟足
みぬ人に 何とや言はん いわはしの 猪苗代なる みづうみの空
                      猪苗代 兼戴
ひづ山 すそのの原に ともしすと 
               ほぐしにひをぞ かけあかしつる

                 夫木和歌集 仲実朝臣 
   猪苗代川桁の桜  観音寺川沿い1kmの桜の回廊は見事です
 磐梯山と摺上原と蕎麦の花  伊達氏と葦名氏が激突した摺上原 冬はスキー場として有名だが夏はバリカンで剃られたような山肌が痛々しい この山の裏側が五色沼 桧原湖などの屈指の観光地裏磐梯である 一面蕎麦の白い花
会津嶺 会津山  つまり会津磐梯山のことである。会津の海は勿論猪苗代湖でこの歌枕の地は現在もセットである民謡にあるように 会津磐梯山は宝の山よ≠ネのですが古代にはなんと『病悩山(わずらい山・やまう山』とよばれていたのです。まるで厄介な貧乏神の山だったのです。噴火や地震、豪雪や冷害は山の祟りと思われたらしい。大同2年(806年)麓の月輪、更科の2ヶ村が一夜にして陥没して会津の海(猪苗代湖)ができたと云う。時の朝廷もほっとけず勅命により空海をつかわして秘法によりこれを鎮め、名を磐梯山に改めたとの言い伝えをもっているのです。この磐梯山のネーミングが実にいいのです。磐 これわ岩です。梯 これは梯子です。つまり石で作られた堅固な梯子が天に通じている との意味なのです。確かに現場に行けばよくわかります。廻には高い山はなく、2000m級(噴火前)の円錐形が、海と呼ばれる日本4番目の大きさを誇る会津の海を前に平坦な地に立っている典型的な神奈備山を見れば、純朴な古代人は登れば神の国に行けると信じた事でしょう。地質学的にはおよそ100万年前にこの海は出来たのだが、神体山としての古代から明治の大爆発そして現代の観光と、常に話題には事かかなかったようである注目は何時も磐梯山ばかりだがそのお膝元の摺上原の樹海には関心が少ないのが実情だ。実はここで陸奥の関が原とも言うべき合戦があったのです。1589年(天正17年)23歳の新興の若き武将伊達政宗と相模の国三浦郡葦名郷を本拠とした鎌倉以来の関東武士の流れを汲む戦国大名で凡そ400年間会津を中心に奥州南部に君臨した名門葦名義広である。その二人がこの会津嶺の麓で其の雌雄を決っする戦いをした。所謂摺上原の合戦である。当初西より風と富田将監の獅子奮迅の活躍で葦名軍が優勢であったが兎に角内紛の多い葦名軍、互いに疑心暗鬼で足並みが揃わずむざむざ富田将監を見殺しにした。然も風が伊達軍に有利な東風と変わり義広は主従僅か2名で敗走せざるを得なかった。 このとき金上盛備(はる)、佐瀬種常、佐瀬常雄の3人が身を楯にした奮戦でかろうじて黒川城に逃げ帰ったがここも留守家臣の裏切りにあい城に入れず実家の水戸佐竹家へ逃げ延びた。ここにいたり名門葦名家は滅び伊達家が奥州の覇者となる戦いがあったのです。1850年会津藩主松平容敬公がその3人の忠臣の霊を弔うため三忠碑を建てた所です。其の上ここには土津(はにつ)神社と言う往時は奥日光とか陸奥の日光とも言われた壮麗荘厳なる神社がる。戊辰の役の戦火でことごとく焼かれ今その面影はないが会津松平家の祖保科正之公を祀る神社である。会津の殿様と言えば松平家でありその累代の御廟のお参りには会津東山ばかりに足が向くが初代の墓はここ土津神社なのであるのを知るのは意外と少ない。彼は「自分の死後は神道で磐梯神社の神の地に埋葬し磐梯神社の末社とせよ」との遺言によりここに葬られたのである。保科正之はご承知の通り恐妻家2代将軍秀忠がその乳母の侍女お静とのたまたまの浮気で生ませた子である。彼は正室(織田信長孫に当たる3人姉妹お茶々 お初 お江)のお江の悋気を恐れそっと信州高遠藩保科正光の養子に出したのである。彼は優秀な人物で異母兄弟の3代家光は彼を生涯頼りにしていて臨終の時は4代家綱の補佐役を頼まれている。1636年彼は山形最上藩 1643年に会津藩に転封されたのである。信州 最上 会津と山国ばかりで海を知らない彼はこの会津の海には相当印象に残ったらしい。会津若松よりは海が見え天に登る磐の梯の麓に彼は永遠の安住の地としたのである会津の家訓第1条「大君の義 一心大切に忠勤に存すべく列国の例をもって自ら処するべからず。若し二心懐ば則ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず」と他国はどうあれ会津藩は将軍家に尽くす藩であることを定義ずけたその人なのである。この生真面目な藩主が後の会津の悲劇となるのである。(平成14年5月10日)(参考 猪苗代町史福島県の歴史 郷土出版社 福島県不思議辞典 新人物往来社 歴史と文学の回廊 鰍ャょうせい)    会津の海  猪苗代湖
 標高514m 面積103・3kuで全国4位 水深93m 透明度27・5mで有名な摩周湖 田沢湖煮ついで3位は立派 更にそのきれいさはCOD値で支笏湖と並び0・6と全国第1位なのです 
厳寒の會津嶺・磐梯山
        会津嶺・会津の海