こころにも あらで別れし あひ津川 浮き名を水に ながしつるかな 古今和歌六帖 伊勢
くるごとに あひ津の関も 我といへば かたくなしくも ぬるる袖かな 散木奇歌集 源 俊頼
会津高田町史によれば、会津川は日橋川となっているが、又別に会津を流れる川の総称ともある。会津の関もはっきりしたものはないそうだ。遠隔地の比喩として会津のブランドを使用したものだろう(若松図書館長野口氏)。確かに我々がそうであるように、都の人から見れば白河の関も会津の関も、そんなに距離感に違いはない。ただ遠いとゆう感覚だけだ。俊頼は使い古された白河よりも会津を使用して,遠隔の新鮮味をだそうとしたのかもしれない。彼がいた11世紀には対蝦夷対策としての関(勿来 白河 鼠等)は形骸化していて、ただノスタルジーとして文学上の関になっていたのだから。 川にしても会津には上記の他、阿賀(大川)川、只見川、大塩川、濁川、宮川、田付川等、大小沢山ある。それらの津(川)が会い合流するところが会津なのだろう。そして大河 阿賀野川となって越後の国に注ぐ。逆に越後からこの水上輸送によりあらゆる物資、文化が会津に入って来た。江戸末期ぐらいまで40石舟があの会津盆地を往来していたとゆうのだ。越後の片隅にありながら中世・近世を通じて700年以上も會津領でありどちらからも辺境の地であったが、明治19年になって新潟県に編入されたばかりなのです。越後の湊から70km、會津から70kmの丁度中間点にあり水陸の拠点の重要な驛所なのもまた津川である。つまり津川は會津と越後の国境でここに関が形成されてもおかしくはない。元々津川は領主葦名氏の一族である藤倉盛弘が宗家から會津河沼郡金上村の地を与えられ建長4年(1252)津川の麒麟山に居城を構えたのに始まる。盛弘の子盛仁は姓を金上と改め以後12代盛備までここを居城とした。この盛備は山中にも拘わらず文武兼備の中々の人物で大名の家臣にも拘わらず従5位下遠江守に叙任されると云う奥州初の叙爵を得てる。又歌道でも細川幽斉に師事して「寸隙を得られざる中、風雅の御心掛殊勝千万に候」と言わしめている。
雪ならば いくたび袖を 払はまし 時雨をいかに 志賀の山越え
と上洛の際に詠んでいる。更に彼の風雅を聞いた秀吉が次ぎの句につけてみよと「女も鎧 きるとこそきけ」と投げかけるとすかさず盛備は「姫ゆりが とも草ずりに 花ちりて」と応じて秀吉を感嘆させたという。武の方では天正17年6月伊達氏と葦名氏の磐梯山の麓摺上原の合戦で如何なく発揮され、敗走する葦名義広のしんがりとして佐瀬種常・常雄親子と共に身を楯にして義広を辛うじて実家水戸佐竹家へ逃亡させ3人は自刃して果てた。この3名の忠烈を讃え嘉永3年(1850)松平容保公によって摺上原に三忠碑が建立され名残を留めてる。この小さな山中にも意外な歴史がるのです。(平成14年5月11日 参考 會津の歴史上巻 葛ス土出版社 阿賀の路 歴史春秋社 名将平惟茂 三川村教育委員会)
承安2年(1172年)から津川は常に陸奥であり岩背(しろ)の国であった。つまり越の国との国境であり、それは明治2年まで会津領として福島県に属していたのをみればわかるのでである。そんな訳で会津の関には津川の町が相応しい。ここは山国であるが湊町でもあり日本3大河港の一つなのです。会津の山々から流れ出した会津の河川は総てここ津川に来るまでに阿賀野川に入るのです。其の豊かな蝦夷の森と水量たるや実に大河の風格十分なのであり今ここに40石舟を浮かべても全く違和感がありません。あの蝦夷最後の英雄安部の貞任 宗任の城跡と言われる狐戻城(会津の街道)から見る阿賀野川は最高の眺めである。 下左端 阿賀町津川の麒麟山狐戻城からの阿賀川と国道49号麒麟橋 明治11年(1878)女流探検家イサベラバードは阿賀野川の渓谷美を日本のライン川と表現した 下中 麒麟山狐戻城祉碑 |
津川新河戸港 三島通庸の會津街道開通にも拘わらず大量輸送には舟運勝る物はなく新に大船戸港の90m下流に造られ鉄道出来る大正初期まで利用された 日本3大河港 江戸時代は150艘の舟が出入りしたと云う |
津川河港大船戸港跡案内板 大船戸港は江戸時代まで使用されていた港である
会津の河・会津の関
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