国指定重要文化財五十嵐家住宅 
宝暦9年(1759)建築阿賀野川の支流実川の上流にある 普請帳や建築時の祈祷札の資料があり建築年代が明らかで普請の状況が詳らかな貴重な建物雪深い山村農家の自給自足の暮らしを伝える住宅として→
 左 平 惟茂の墓石と日本一の天延記念物大杉将軍杉
 日本一と言えば秋田杉のきみまち杉で高さ58mの直径168cmの一本立ちの大木だがこの将軍杉はスマートさで叶わないが樹高50m胴回り12mで根元で6本の大枝が別れてる対象的な大杉だ その足元にあるのが平惟茂の墓碑である 今昔物語 ・吾妻鏡・後拾遺往生伝等での武勇伝の持ち主である 
信州鬼無里の鬼女伝説・信州戸隠謡曲・京都壬生寺狂言等の各紅葉狩毎年12月歌舞伎座で公演される紅葉狩は彼の剛勇な武将を今に伝えている 然し永くここ阿賀町三川村で知る人はいなかったが會津初代藩主保科正之によって80歳でここ三川村で生涯を終えた事が明らかにされ碑の建立となったのです  
→ 高く評価されてる しかし国道とは言えまことに険しく狭隘な459号から分かれて車がやっと通れる町道を曲りくねった細い道が尽きる所にある 所で安部能成は四国伊予国松山の生まれである 伊予は義家によって流された蝦夷安部宗任の地である 宗任は後に九州築前宗像郡に流されている 安部晋太郎衆議院議員は山口県出身だが自ら安部 宗任の末裔を名乗って憚らなかった ひょっとしたら安部能成氏も同姓から蝦夷宗任の末裔かも知れないのです      国宝(重要文化財)平等寺薬師堂  当初平堂寺と書いた 平氏一門で陸奥鎮守府将軍平 維茂(平将門とは従兄弟同士)が平安時代に創建したという 佐渡蓮華峰寺に次ぐ新潟で2番目の古さを誇る 大正12年には国宝(重要文化財)に指定されると云う貴重な物件なのだ
左 安部 能成歌碑
 五十嵐家駐車場にある
実川の 水上遠く たずね来て 
  人のまことに あふぞ嬉しき
と詠んでいるが哲学者・教育者が何故こんな山奥を訊ねたのだろうか 氏は私の大学時代に学習院院長だったがまさかこんな山奥に歌碑があるのには驚いた 他に小川芋銭の句碑もあった
 上右 津川藩三中碑
猪苗代町の磐梯山の麓の摺上原にある三忠碑 嘉永2年(1849)會津藩主松平容保公金上盛備 ・佐瀬種常 ・其子常雄の忠誠の様を後世に伝えるために建立した 勿論その筆頭には金上盛備の名があるが総て漢字で読めない その漢字も全文437文字総てが唐の書家 顔真卿の書体を一文字一文字拾い集めて刻まれた凝ったもので日本でも目ずらしい碑文である  磐梯山の麓観光客の自動車が頻繁に通る県道7号から細い道を数百m入った寂しい松林のかにポツンと立っている 然し明治25年以前新県道が出来るまでは會津5街道の一つ二本松街道(二本松から見れば會津街道)が碑の前を通り極めて賑わったところである 目の前の松並木が僅かに往時を偲ばせます 
上右 磐梯町金上壇 此処に碑が建てられたのは明和2年(1765)の事で当時は墓守も置かれていたと言う   表面にはびっしり漢字が彫られているが私には読めなかった 後方にあるのが五輪塔  敵将の父によって五輪塔が立てられたり、摺上原合戦から凡そ200年後にこんな立派な碑が建てられるとは津川城主金上盛備はよほど人徳があったのでしょう  右 伊達輝宗が金上盛備の為に建てた五輪の供養塔 天正17年(1584)伊達政宗は會津に侵入した  金上盛備は手勢を引き連れ越後津川から駆けつけ迎え撃ったのです 政宗の父輝宗は敵ながらの獅子奮迅の死を悼み五輪塔を建て手厚く葬ったのです そしてこの地を金上壇と名ずけたのです
 
 會津の河 其の3