会津の里
かひなしや 尋ねきたれど 陸奥の 会津の里も 名のみなりけり 夫木和歌集 藤原宗国
陸奥の 会津の里に 君はありと 思ふばかりそ 頼みなりけり 林葉和歌集 俊恵
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国指定史跡大塚山古墳
右 会津幸運の詩碑 国の宝勝常寺を始め古代・中世の史跡が伊達政宗の侵入時に灰燼に帰さなかったのは奇跡であるが太平洋戦争でも米国ウォーナー博士の京都・奈良・鎌倉と共にここ会津の爆撃をしないように提言したのも幸運であた 碑には土井晩翠下の文言がある
一千余年閲(けみ)したる
仏像数十三を伝え来たりし勝常寺
尊き国の宝なり 秋の景色の
深みゆく 会津郊外勝常寺
仏縁ありて詣できて
十三仏を拝みぬる
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上 国指定史跡 大塚山古墳
土井晩翠ウォーナー碑 会津の幸運を称えた詩碑 会津湯川村
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1600年伊達政宗が岩出山から仙台にその居城を移すまで陸奥一の都市はここ会津であったとは信じ難い。往時で4万人 400年経た現在でも僅か2,5倍の10万の会津若松市を考えると往時の賑わいがわかるでしょう。この奥羽山中で交通不便な地の会津が何故かくも陸奥の中心になったのだろうか。古事記・日本書紀によると崇神天皇は十年(紀元前88年)四道将軍(山陽 山陰 北陸 東海の各道)を『若し教(のり)を受けざる者あらば乃(すなわち)兵(いくさ)を挙げて伐(うて)』の命のもと諸国に派遣していた 陸路北陸道北上したのが父大毘古命と、東海道から茨城県・栃木県の那珂川そして福島県会津阿賀川沿いを下ってきた息子武渟河別命(たけぬなかわわけ)が、日橋川合流地点で劇的対面した所でそれ以来この地は相津(会津)と呼ばれる様になったのである。地名の由来の凄さと陸奥開拓のパイオニアの地がこの会津の里なのである。神武天皇以来わずか10代の崇神天皇(現今上天皇は125代)の夢のような朦朧とした時代に、もう会津の名前が記録されている事は幕末の悲劇をカバーして余りある快挙だ。その親子が、新潟と福島の県境にある天津嶽(御神楽岳 1386m)の頂に、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀ったのが伊佐須美神社(奥州二の宮)の創祀という。その後博士山(1482m)、明神ヶ岳(1074m)を経て次第に人家に近づいてきて、欽明天皇13年(552m)に現在地高田町に遷座。大毘古命、武淳河別命を合祀したとつたえられて今に至る。こうして会津の国生みがなされたのです(若松市内には昔伊舎須彌神社と呼ばれた八角神社もあり昔は2社あったと言う)有名な日本武尊の東征が凡そ110年と言われるのでその200年も前に遡るのです。然もこれが神話とも言い切れぬ古墳群が会津には多数あのもその裏づけだろう。特に大塚山古墳(東北で一番古い)・亀ヶ森古墳(名取雷神山古墳に次いで2番目に大きい)は陸奥の1〜2を争う規模(大きさ)と質(埋葬物)を誇るのです。この国重要文化財の前方後円墳からは耶馬台国の卑弥呼に通じる三角縁神獣鏡(岡山県和気郡備前町の丸山古墳のそれと同一鋳型で製作されている)をはじめ銅鏡・刀・鉄斧・玉・靱(矢筒)・他多数の装飾品が出土し既に畿内の大和政権との繋がりがはっきりと汲み取れるのは驚異と言う他は無い。4世紀頃のものとの事だが西暦にすれば300年台であり日本武尊とは200年しか違わないのです。もうこれは神話ではない四道将軍・日本武尊・古代会津の豪族の繋がりの事実が証明された様な物なのです。陸奥と言えば蝦夷の東征だが会津だけは当初から中央支配下にあり蝦夷から隔離された地であったかも知れない。征夷将軍・東征将軍が会津に立ち寄り闘った話は聞かないのである。この事は会津は有史以来王化・皇風に浴していて大和朝廷の直轄の飛地だったのではないか。 |
其の証拠に789年に会津壮麻呂は官軍に属し蝦夷征伐に参加して戦死している。同じ蝦夷の地にありながらです。最初から会津は天皇の息子と孫が登場した所なのだがそれは中世に至っても歴史上のエリ−トが赴任して来るのです。1189年頼朝の平家・奥州征伐で功績のあった鎌倉武士御家人三浦一族の佐原十郎義連が赴任し3代目光盛が葦名(三浦半島葦名郷に本拠があったから)を名乗りその後20代400年にわたり奥州南部を治める戦国大名の葦名氏の祖となるのを手始めに、1589年には伊達政宗(1年間) 1590年には蒲生氏郷(8年間) 1598年上杉景勝(3年間) 1601年蒲生秀行(26年間) 1627年加藤嘉明(16年間) 1643年保科正之(1696年元禄9年以降松平氏を名乗り225年間の居城〕と錚々たる人物ばかりである。葦名氏は盛氏の時代に最盛期を迎えるが彼の死後急速に衰え最後の藩主義広は常陸佐竹氏からの養子である。その葦名氏を滅ぼしたご存知伊達政宗は伊達男の面目躍如で秀吉に逆らい1年で米沢に閉じ込められた。その後任が蒲生氏郷である。13歳の時あの織田信長の人質となっているがその実力を見抜いた信長は娘(次女)冬姫を娶らせると言う惚れ込み様の人物で、その実力は秀吉も恐れたため伊達氏の監視役として中央から離れた会津へ飛ばしたと言う。彼は字面の悪い黒川から生まれ故郷近江国蒲生郡若松の森の名をとり若松と改めた。彼は終生霊名レオを名乗るクリスチャンであった。その後釜が有名な叔父謙信の養子の上杉影勝である(謙信の甥にあたる)
右 国指定史跡 大塚山古墳
この小山全部が古墳なのです 出土品は一括国指定重要文化財
標高30mの丘陵に全長120mの会津豪族の王者の古墳は陸奥最古の前方後円墳である 然も会津の駅から僅か1.3kmの市街地の真ん中で現在までも会津庶民の共同墓地墓地と一緒なのが何とも凄いのです 会津の原点は次ページの伊佐須美神社とともにここ大塚山古墳がスタートなのです 数百点の副葬品は国の重要文化財に指定されるなど畿内の古墳に劣らぬ出土品なのです ことに三角縁神獣鏡は岡山吉備国丸山古墳ものと同じ鋳型から作られたもので大和朝廷から岡山と会津へ下賜されたものと言う 4世紀(西暦300年代)と言えば3世紀の邪馬台国卑弥呼が中国魏国から銅鏡100枚賜った三角縁神獣鏡だと言う説と日本製と言う説とがあり諸説紛々であるがいづれにしろ大和朝廷成立と時を同じくして会津がその支配下にあった事は事実のようだ 近くには堂が作古墳 飯盛山古墳があり一箕古墳群を形成している 他にも宇内青津古墳群 雄国山麓古墳群等多くの古墳が散在している 陸奥とはいへ蝦夷とは無関係のエアポッケットの様な地域だったよう その他多数の古墳群はここ会津がまことに陸奥文化誕生の地仁ほかなりません この3古墳はその代表的な古墳である |