会津に来る前の景勝は、越後春日山城を本城とし、91万石を領していた。 会津に移ってからの景勝は旧蒲生領92万石のほかに、旧上杉領のうち出羽国庄内の三郡と、佐渡三郡を合わせた会津統治120万石の大名となり、徳川240万石、毛利120万5千石に次ぐ天下第3位の大名となり、 支城の数も蒲生時代の支城14をはるかにしのぎ、28支城をもつ全国屈指の大名となったその人である。然し関が原の合戦で豊臣側についたので徳川家康によって米沢30万石に減封され、後任に再度蒲生氏郷の息子秀行が宇都宮から赴任した。彼は家康の娘振姫を正室としていたため徳川一門として会津統治25年間に及ぶ。次の後任は賎が岳の七本槍で有名な加藤嘉明が伊予松山から赴任した。南国伊予から雪国会津へは20万石から40万石に加増されるとはいへ余り嬉しくなかったらしい。彼は1583年亡き信長の後任争いで羽柴秀吉と柴田勝家が琵琶湖の北にある賎が岳(422m)で雌雄を決する戦いをする。その時秀吉の部下の7人(加藤嘉明・福島正則・加藤清正・片桐且元・平野長泰・糠屋武則・櫻井佐吉)の大活躍は賎が岳の7本槍として殊に有名な典型的戦国武将だ。そして最後が保科正之氏である。彼こそが2代将軍徳川秀忠の御落胤とは言え徳川直系の血を引き継ぐ由緒ある人物(司馬遼太郎流の名台詞によると会津松平家と言うのはほんのかりそめの恋から出発している)であり人格的にも素晴らしく3代将軍家光は腹違いの弟に全面的に信頼を置き彼の臨終に際しては幼い4代家綱の後見を依頼している。そして子孫に徳川家への絶対忠誠、法の絶対服従を示した家訓十五ヶ条の第1条は後の会津の悲劇の伏線となったのである。その結果保科3代正容の時には徳川幕府から松平の姓と葵の御紋を賜り徳川御三家に次ぐ信頼を得るのである。この様に会津は最初の第8代孝元天皇(前214〜前158年)の子(大毘古命)と孫(武渟河別命)から最後の名門徳川幕府一門の松平家と言う栄光の人々の里なのです。会津は歴史上仙台以上の選ばれた所だったのである。『会津は東北じゃないんですと昔井上ひさし氏が言われて事がある』と司馬遼太郎氏が街道を行く29で書いている。そして『・・・古代以来深々と堆積した独立性の強い文化を持つ地帯であると考えている』とも書いている。まさにその通りの会津である。(平成16年12月17日)(参考 東北古代の王朝と王権 講談社新書 福島の歴史 郷土出版社 会津の歴史 歴史春秋社 古代の会津の歴史 講談社 街道をゆく白河・會津のみち 朝日文芸文庫
歴史と文学の回廊 鰍ャょうせい 街道を行く29 朝日新聞社)
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国指定史跡亀ケ森古墳(5世紀中ごろ) 会津坂下町
全長127.3m 後円部直径66.8m 高さ10m 前方部長60.5m 高さ55.8mの巨大さで宮城県名取の雷神山古墳に次ぐ陸奥第2の規模を誇る古墳である 勿論福島県では第一位の規模を誇る 然も当時は周囲に18m〜30m幅のほりがあったといううので堀を含めた総面積は東北第一位の規模と云う この辺りは会津文化の発祥の地なのです 宇内青津古墳群を形成している 近くには男壇遺跡・宮東遺跡・中西遺跡・雨沼遺跡等古墳時代前期の遺跡が発掘されている
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国指定史跡鎮守森古墳(5世紀前半) 会津坂下町
全長60mの前方後円墳である 亀ケ森古墳とは50mしか離れていない そもそも二つの古墳は会津の大河阿賀川の南側にありそこに宮川 濁川などの河川が流れ込み合流する地点にある そこは現在青津と言うが本来は河川(津)が合う(合流)所から合う津→合津→青津→会津となった所らしい つまり会津の語源の発祥の地らしいのだ この古墳2つはわずか50mの距離にある 洪水の時には湖に浮かぶ亀の親子見えたという そこから大亀(大亀甲)・小亀(小亀甲)と呼ばれてる 古墳は従来丘陵や小山を利用してその頂部に造営されるのが常だがこの2基は平地に人工的に造れたようであり極めて分かり易い
会津の里 其の2
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