延喜式内社蚕養国神社  蚕養町
 弘仁2年{811年)の鎮座 文字通り養蚕の神様で日本で唯一社である 縫製会社・繊維会社の奉納絵馬が沢山ある
 日本の鎮守の森はどこも素晴らしい
  会津藩士戦死者の墓 墓碑銘は戦死墓 のみ    長命寺
慶応4年(1868)9月22日会津藩の降伏開城により戦争終結したが城下の会津藩士戦死者の遺骸は新政府によって埋葬が許可されず翌年雪解けまで放置された それを見かねた長命寺住職が付近の遺骸145体を埋葬したが墓碑が許可されたのは10年後の明治11年4月で然も氏名は許可されずまとめて戦死墓の3文字だけしか認められなかった この差を見ても會津人の薩摩・長州に対する怨念の深さが知れよう
 
新撰組宿陣殉難の地如来堂

 斉藤 一など隊士他20名が西軍により敗死した この如来堂は神指城土塁跡の上に立っている と農家の主人が言っていた 新撰組三番隊長で沖田総司・長倉新八等と三大剣客といわれた斉藤 一の墓は七日町阿弥陀寺にある ここは新撰組殉難の地なのです
清水屋旅館跡
嘉永5年(1852)22歳の吉田松陰が東北巡回際に宿泊し然も2度おとずれた その後戊辰戦争で宇都宮城の攻防で負傷した土方歳三が投宿治療しその後函館へと転戦した 更に明治15年(1882)喜多方出身の自由民権運動家宇田誠一が帝政議員に襲撃され重傷を負った所である 會津の歴史作った
清水屋旅館跡地である 今は大東銀行会津支店である 



会津の里 其の12

  西軍墓地 
西軍十余藩174名の慰霊が眠る 各藩毎にまとまり墓碑には全て個人の名前が彫られていて藩ごとに整然と並んでいた 東明寺

 西軍墓地の碑 
敬弔 長州・越前・備州・土佐・大垣・肥州・館林・岡山各藩 霊位 と彫られている
 更に上右の長州藩15人墓の様に各藩毎にも立派な石柱がある

 殉節越後長岡藩士の碑 門田町
越後長岡藩士山本帯刀隊長他43名は長岡城落城後新潟と福島県境の80里越えの難関を乗り越えてきたが明治元年9月8日早朝の濃霧の中の飯寺河原で孤立無援となり西軍の包囲網に陥り全員戦死した
 明治23年村民が供養の碑を建て弔らったがその後昭和31年會津史談会が新たな殉節の碑を建てた 『藩主から戦いを命ぜられるも降伏は命ぜられていない まして官軍と偽る賊軍には降伏できない』 と