近藤勇(左)土方歳三(右)の墓 天寧寺 墓の左に近藤勇の辞世の詩がある 『孤軍援(たすけ)絶え 俘囚となる 君恩を顧念して 涙更(また)流る 一片の丹衷(たんちゅう) よく節に殉じ 雎陽(すいよう)は千古 これ我が陦(ともがら) 他に靡(なび)きて 今日また何をか云はむ 義をとり生を捨つるは 我が尊ぶところ 快く受く電光三尺の剣 ただまさに 死をもって君恩に報はむ』 これが秩父の百姓の出身ながら武士に憧れ剣術に明け暮れた辞世の詩とは信じられない  →
元会津藩家老田中家東口墓地 天寧寺
萱野権兵衛(下右夫妻の墓)は会津藩国家老して藩存続・松平藩主親子の存命を嘆願して会津藩の全責任を一人背負って明治2年5月18日切腹した憂国の士であった  郡長正(下左)は萱野権兵衛の次男であるが父が逆賊の汚名を一身で背負ったため萱野姓が使えず母方の郡姓を名乗るのである 将来の会津を背負う7人の内の一人として福岡県小笠原藩に留学しているとき母の戒めの手紙を紛失した 其のことを小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られてしまった 長正は会津武士の名を汚したとしその面目を保つため切腹をして答えたのです 僅か16歳であった 
→ 勉学に明け暮れていても現代日本人のレベルは彼に遠く及ばないのは確実に日本人の品質が劣化してる証に他ならない 京都守護職始末記に『新撰組 規律厳格 士気勇悍 水火と雖も辞せず 後諸浪士来附するもの頗る多く 守護職の用をなせる事 亦甚だ多し』とある 因みに土方歳三の辞世の句は 
よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちるとも 魂は東の 君や守らむ

新撰組と松平家は真に不思議な縁
である 武蔵野国多摩の農民と由緒ある徳川征夷大将軍の流れを汲む松平家が隣合わせに眠っている 
時代に後れてやって来た成り上がりの近藤としがらみから時代の縄縛を越えられなかった老舗の松平 共に時代を読みきれなかったのだろう 新撰組の苛烈な刃で京の大路小路に屍を積み上げ都人を震え上がらせたにも拘らず事後「京の都の狼藉は新撰組がやった事」とは京都守護職始末にも残さず人にも言わず己が胸に納めてる會津人特有の頑固な程の律儀さと謹直さをここに見るのである 西南諸藩による尊皇攘夷 倒幕運動に対して徳川慶喜・松平春嶽は家訓第一条を持ち出し幕府の為京都守護職を迫った 国家老西郷頼母は「薪を背負って火に入るような物だ」と反対するも「会津しかない」との幕府の要請で京に登らざるを得なかった 絵に書いたような美男の28歳の容保は忽ち御所の女官の人気者になり「♪会津肥後様 京都守護職務めます 内裏繁盛で 公卿安堵 常世のなか ようがんしょ♪」と謡われたらしい 然し信頼厚い光明天皇の死後会津の悲劇は始まるのである 
  左上 佐々木只三郎の墓  会津武家屋敷
小太刀をとっては日本一
ともいわれ清河八郎・坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺者と言われる 辞世の歌 
世はなべて 移ろう霜の ときめきぬ 心づくしの 白菊の花

 上 御三階 七日町 
鶴ヶ城遺構として唯一残る貴重な建物
江戸時代の建築で明治初年まで鶴ヶ城本丸にあったもので明治3年にこの地に移された 外見は3階だが内部は4階になっていて2階と3階の間に天井の低い部屋がある 階に上る梯子は用の無いものが登れないように上から引き上げる仕組みになっている 当時は密議所としていた 又本丸北東の正方形の台座の上に建っていたことから物見台や展望台の役目と思われる(説明板) 
左端下 新撰組副長斉藤一の墓三番隊隊長 
阿弥陀寺 御三階の前 
彼は会津を見捨てられず土方歳三と別れ会津に残り藤田五郎と改名し後日警視庁に入庁し容保公媒酌で会津藩士の娘と結婚して西南戦争へも参加し 後に現筑波大学の前身の東京高等師範学校に学んでいる 沖田総司・永倉新八と並ぶ剣客
会津の里 其の13