堀部安兵衛武庸生誕の地 貴徳寺 会津坂下町
父は新潟柴田藩士中山安太郎 勘当され坂下に移り安兵衛はここで生まれる 彼は3度仇討をしている 彼13歳の時押し込み強盗に殺され非業の死父の仇 2度目は元禄7年2月高田馬場での伯父菅野六郎左衛門の仇討 同年堀部弥兵衛金丸に望まれ養子になり中山から堀部となる 元禄15年12月に3度目が赤穂浪士の討ち入りである 腕は立つが飲べいで数奇な人生を駆け抜けた
下左 掘部安兵衛両親の墓 貴徳寺
   下右  堀部安兵衛 坂下町安兵衛通り
左中 吉田松陰東北遊日記の碑 心清水八幡神社参道
1855年(嘉永年)2月25日吉田松陰は東北周遊の折心清水八幡神社お参りしてここから越後に向かったのです (碑は下右端)
 心清水八幡神社坂下町 1055年(天喜3年)前9年の役の折頼義・義家親子が石清水八幡を勧進したのが始まり 頼義が禊のとき「心清々しい」と言った事がその名の由来だそうだ 神社にある塔寺八幡宮長帳は286年に及ぶ神社の行事を記録した120mもの長大な日記で国指定重要文化財である 

春日八郎記念碑 別れの一本杉(下) この杉の陰にの石碑があり自動的に春日八郎の甲高い歌声が流れる 彼は坂下町出身なのです
 
 中野竹子の墓地 法界寺 坂下町
資性英数・容姿豊麗・才智優衆・書をよくし・武技に達し・14歳にして経史に通じ・詩文和歌にすぐれて実に典型的會津女子であっと云う 辞世の句
武士の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも
義を抱いて節を守り嫋竹の面目躍如として万人の胸に迫ります 彼女のその時の柄の長さ5尺3寸の薙刀と1尺5寸の刀はこの寺の寺宝として保存されています 
尚この近くの寺にはここ坂下町出身の作詞家・作曲家猪俣公章氏の墓がある
上  喜多方甲斐本家
約2000の蔵があるといはれる蔵の街喜多方を代表する座敷蔵屋敷で大正6年から大正12年の7年の月日を費やして完成された 中でも黒漆喰の外見は喜多方でも目を引く貴重なものである 黒漆喰は漆喰に松の油煙等を練りこんだもので白漆喰に比べて格段に高価である 
国指定有形登録文化財建造物

 会津の里 其の14