国指定史跡鶴ヶ城(若松城) 旧称黒川城
良かれ悪しかれ会津の象徴 ここを中心に数多くの史跡が点在している 国指定史跡の正式名所は若松城である 戊辰戦争では薩摩軍の助けを借りた板垣退助率いる新政府軍の一ヶ月の猛攻にも持ち堪え其の堅固さが証明されたが将来反政府のシンボルとなるのを恐れ新政府は陸軍省命に命じ明治7年総てを取り壊したのです 太平洋戦争後一時競輪場にもなったのです |
鶴ヶ城内には茶室麟閣がある 利休の弟子7人衆(利休七哲)の氏郷は利休への深い恩義から其の養子小庵を会津へかくまって保護した その後彼の嫡子宗旦の3人の息子が武者小路千家(官休庵宗守)・表千家(不審庵宗左)・裏千家{今日庵宗室)となる 氏郷がいなければ日本の今日の茶道がなかった事を考えると氏郷の文化人としての凄さも分かるでしょう
下 会津藩国家老萱野権兵衛洵節の碑
鶴ヶ城城内にあるがこの碑に立ち寄る観光客は殆ど皆無である せめてこの洵節碑は眺めて欲しいものです 幕末40万石會津藩の全責任をたった一人で背負った人だから
国家老萱野権兵衛彼こそ会津藩と松平家の存続を願い戦争責任を一人一身に背負いA級戦犯として切腹した人物なのです 切腹に際して松平容保公からの親書は
『私の不行き届きによりここに至り慟哭に耐えず その方の忠義の段は厚く心得居り候』
であったと云う 明治2年5月18日である 遺族には金5000両と自刃見舞いとして銀20枚が下賜されたのだ
下右 須田新九郎の碑 會津藩校日新館跡の右は全額自費で建立した建築家の名が掘られている |
下左 旧会津藩校日新館跡の碑 鶴ヶ城の西隣 名家老田中玄宰は寛政の改革で教育に重点置いた政策を採る 上はその学問のひとつ天文学の天体観測所跡 現日新館は市北部河東町にある お城の西に山鹿素行生誕の碑がある 揮毫は軍神東郷平八郎 兵学山鹿流の開祖で赤穂浪士大石蔵之助の山鹿流陣太鼓と言えば心当たりもあるでしょう 藩主保科正之の朱子学思想の批判から赤穂に配流となる 10年の赤穂潘在住で浅野藩主・大石そして近世では吉田松陰・乃木希典まで彼独自の武士道精神思想が受け継がれたという 今山鹿町の地名を残す 又この地はあの上杉家名将直江兼継の屋敷跡でもある(下右) |
国指定史跡若松城天寧寺土塁
文禄元年(1592)蒲生氏郷が会津に入部して若松城改築の際築かれた追手として最重要地点であった
下 現会津藩校日新館 会津若松市河東町
什の掟=ならぬことはならぬものです
会津藩では同じ町内に住む6歳から9歳の藩士の子供たちが十人前後でつくる集団を『什』と呼ぶ 掟は7つからなっていてそれを唱和した後に
ならぬことはならぬものです と唱えます
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