我が袖は かりにもひめや 紅の 安積の野らに かかる夕露        式子内親王集 式子内親王
          いひわたりつれどつれなき女に
陸奥の 安積の原の しらまゆみ 心つよくも みゆる君かな             兼盛集 平 兼盛
式子内親王は又安積の沼をも詠んでいる
         浅ましや あさかの沼の 花かつみ かつみなれても 袖はぬれけり
内親王は後白河天皇の娘である。安積山 安積の沼で古より知名度のあった所だからその延長線上で安積野も詠まれたのでしょう。 然しその後安積の名前が再びスポットを浴びるようになるには明治になって国策として安積原野の開拓
原野4千町歩の開拓とその灌漑用水として猪苗代湖から水を引く安積疎水事業)である。つまり安積開拓まで待たねばならなかったのです。中世では奥ゆかしい『野』でも近代ではただの『原野』に過ぎなかったのです。お蔭で郡山は現在福島県の商工業の中心地としてまた東北高速道路とJRの東西南北交通のジャンクションとしてそしてその経済発展は目覚しいのです。ただしその代償として安積野の風情 風景は犠牲にしてではあるが。所で安積野を詠んでくれた内親王の歌で有名なのは百人一首 新古今和歌集に載った
        玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする
  
        (もう死んでもいい 貴方との事何時までもこのまま世間に隠し通せないわ 私自信がないの )  であろう。さらに
        花は散りて その色となく ながむれば むなしき空に 春雨ぞふる
        恋ひ恋ひて よし見よ世にも あるべくと いひしにあらば 君も聞くらん
      
 
(この恋が成就しないならもはや生きるのぞみはない あなたどうぞ見ててください 私は死にます) ・・・・でしょうか?
など一見孤独で耐え忍ぶ繊細な女性に見えるのです。そんな女性にこの遥か遠くの荒々しい安積原野を想像していただいた事は嬉しく又光栄な事でありましょう。ところが忍ぶ恋の相手は歌人藤原定家とも言われてるが最近は浄土宗開祖法然とも云われてる。とんでもない坊さんもいたものだが恋愛御法度の内親王も内親王ではないでしょうか。それとは対照的に大正5年ここ安積野原野開拓の貧しい農民・、小作人の生活苦からの人道主義的立場で書き上げたのが宮本百合子「貧しき人々の群れ」である。百合子は子供の頃当時福島県役人として開拓に心血を注いでいた祖父中条正恒の家に時々遊びに来ていてその現実を垣間見ていたのです。式子内親王と宮本百合子の聞くと見るとでは大違いの安積野のだったのです。

(平成14年7月9日)(参考 日本歴史人名辞典 福島県の不思議事典 新人物往来社) 
   
  額取山から東を望めば安積野  西を見れば猪苗代湖 明治政府はこの山を越し水を通す大事業をした  失業した元士族達の救済事業として言わば日本版ニューディール政策としてでる 九州久留米 鳥取 高知 他全国から凡そ500戸が入植した  額取山の御霊櫃峠からは猪苗代湖を見ることが出来る
国登録有形文化財 安積疎水麓山の飛瀑 

安積の飛瀑は安積疎水開削における分水路78kmの開削により逢瀬町多田野の第5分水路を取水口として郡山方面へ導水する為疎水路郡山支線の一環として明治15年に建造された人口の滝である 
現在市内麓山公園内にある 

安積野
    
 国指定重要文化財 旧制福島尋常中学校
             現県立安積高等学校
この建物は明治22年(1889)福島市にあった福島尋常中学校が火事で延焼したとき県庁を福島市に置く条件に県の中央の郡山市(安積郡桑野村)に移転して本校舎として新築された県内最古の旧制中学校建物である
玄関のポーチやベランダなど鹿鳴館的洋風技術を取り入れた木造総2階建て校舎で当時の人たちはこれを桑野御殿と呼び目を見張ったと云う 現在は財団法人安積歴史博物館 として使用されている  館内には当時御卒業生である高山樗牛 久米正雄 中山義秀 京都帝大総長新城新藏 小西重直 国際的歴酢学者朝賀貫一などの資料の他旧制中学から安積高校にいたる福島県の中高等教育のあゆみや歴史が保存されている