龍隠寺の隣の安日山高乾院の扁額の書も第7代藩主秋田倩季だが安東・秋田でもなく安倍倩季の姓で載ってるとは秋田氏がいかに蝦夷としての祖先に拘った証左でしょう
下 秋田氏菩提寺高乾院山号の安日山 安日は奈良大和の先住民族で神武天皇の東征により破れ津輕に逃れた安日・長脛彦が津軽へと逃亡して蝦夷の祖となりその後の安東秋田氏となった言い伝えられそれを頑に信じ蝦夷の末裔を自負する現れでしょう
右下中 秋田家御廟と歴代藩主の墓碑 高乾院境内 大きな墓碑は三代輝季・五代治季・六代定季・七代倩季・九代孝季・十代肥季がある 基壇のみが残る物には初代俊季・二代盛季・四代頼季であるが彼らの墓碑は高野山にもある 八代謐季のみは龍穏院にある その他家族の墓地もある(参考 高乾院栞) ※ 同じ秋田氏菩提寺が龍穏寺と高乾院と2つあるのは秋田氏の内紛がありそうだ |
秋田一季公の墓 高乾院
一季氏は三春潘最後の藩主映季公の孫にあたり後に学習院理事 学習院剣道部総監督も勤められた |
河野広中像 自由民権発祥の地に立つ 三春潘の豪商の生まれ明治14年福島県議会に当選 32歳の若さで福島県会議長に就任 明治23年第1回総選挙で衆議院当選 明治36年衆議院議長 大正4年から第2次大隈内閣で農商務大臣を歴任した→ |
→左 県議会議長の時県令三島通庸の會津三方道路開拓に対する過酷な圧政に対して立ち上がった所謂福島事件(喜多方事件)により投獄された 喜多方弾正が原に村民1000名が集結した 河野広中は三春藩主秋田氏に似て頗る一徹だったなのかもしれないね
田村氏菩提寺慧雲山福聚寺
三春町御免町と云う由緒あり気な町名の地にある 現在のご住職は芥川賞作家の玄侑宗久氏である |
安積野
其の4
左下 福聚寺にある田村三代の墓地
戦国大名田村氏は初代義顕・二代隆顕・三代清顕である 永正元年(1504)義顕が田村庄守山から三春大志多山へ城を移した 中小大名の戦国の生き残策の合従連衡で隆顕は伊達植宗の娘を清顕は相馬顕胤の娘をもらい嫡子がいなかったため一人娘の『愛姫』を伊達政宗に嫁がせた 僅か12才のときである 清顕死後城内は相馬派・伊達派の紛争があったが伊達氏の田村仕置きで愛姫の子宗顕が藩主となり一時伊達領となったがその後秀吉の奥州仕置で田村氏は改易となり會津領となった 然し田村氏は愛姫の根回しで宗顕を一関藩主させ以後明治維新まで存続したのである |