陸奥出羽の蝦夷終焉の地は安積野の東の端にある小さな町、田村郡三春町ではないだろうか?と思っている。ご存知国の天然記念物・日本3大桜である三春の瀧桜で有名な町だ。この町中々頑固なのです。平成の大合併により周囲は大郡山市・本宮市・田村市に囲まてしまったにも拘わらず独り独立独歩を貫いていてるのです。その意思は彼らの先祖である奥六郡の安倍一族安東氏一族、そしてその流れを汲む平泉の初代藤原清衡一族が蛮人かつ朝敵にも拘わらず我こそは蝦夷の末裔であると一貫して宣言して憚らない反骨精神に似ているような気がするのは不自然だろうか。カムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇に率いられた天孫族(日向族)に敗れた大和の蝦夷 鳥見族の安日・長脛彦が越の国から現秋田出羽・青森津輕へと逃亡して蝦夷の祖となってからその末裔を名乗る三春潘最後の藩主秋田映季に至るルーツを辿る事は神話時代の出羽陸奥から東北の明治維新までの3000年の歴史を辿るのと殆ど同じなのです。三春秋田氏の歴史を辿れば出羽・陸奥の蝦夷の史実をほぼ網羅していると思われるのです。 更にここは中世の永正元年(1504)田村清顕が三春城入城した戦国大名田村氏が何と坂上田村麻呂の末裔である坂上古哲(田村右京太夫)が初めて田村姓を名乗った末裔と云う凄い町なのです。三春町史にある坂上系図によると古哲は「初以田村為称号坂上姓ト」とあり中々由緒あるのです。田村家は隆顕の時伊達植宗の娘を嫁にもらったり清顕の時には其の娘(めご)姫を伊達政宗の嫁にやったりと伊達家の援助支援を受け戦国の世を生き抜くが最後には伊達政宗の命により秀吉小田原出兵要請断った為結局三春を改易させられた。そう言いながら戦略に長けた政宗は遅ればせながらも小田原に出兵して領地は安堵されているのです。結果的に政宗は三春を乗っ取った形となったのである。神武天皇と戦った末裔のプライドかそれとも伊達の裏切りによる人間不信からか平成の大合併を拒否してるのかと想像するのも楽しいのです。然し田村家はその後愛姫の遺言により伊達忠宗の三男宗良が応永元年(1652)田村宗良を名乗り岩手一関藩主となり再興を果たしてはいる。二代目建顕の時には江戸藩邸にて赤穂藩主浅野内匠頭長矩の切腹を取り計らっているのは有名だ。それにしても蝦夷のライバル坂上田村麻呂の末裔の地に蝦夷の末裔の秋田氏が転封してくるとは不思議な巡り会わせではないでしょうか?歴史は本当に面白い。
(参考 三春町史 三春町・秋田「安東氏」研究ノート 無明舎出版)  

菩提寺龍穏院の山号は秋田山 慶長7年(1602)発祥の地から常陸宍戸潘に移封っされ更に天保2年(1645)ここ三春に転封されても故郷秋田への思慕は止まなかった
 秋田家尊霊塔 
三春潘4代目当主秋田頼季公が秋田から常陸宍戸潘へそしてここ三春潘と移封と長い年月により祖先の遺跡が薄れる事を憂い建立した
 
 三春潘8代目当主秋田長季公の墓 
龍穏院には愛季・愛季娘・実季娘そして唯一藩主では8代藩主謐季がここに眠る
 (参考 龍穏院栞)

右端下 本堂正面の屋根にはめ込まれてる秋田氏家紋 檜扇違い鷹羽 津輕・秋田の本願の地を離れても蝦夷秋田氏のプライドがここにもある
   安積野 其の3

   
 
 秋田山龍穏院本堂 この本堂には秋田家先祖発祥の地青森県十三湊・同藤崎・秋田県檜山の安東安倍家そして茨城県笠間宍戸潘の秋田家の歴代藩主の位牌が安置されている また初代三春潘当主秋田俊季公の祖父安東愛季公の位牌もある 其の法名龍穏院殿拾遺萬郷鐵大居士台霊から寺の名前となった 愛季公は分裂していた湊安東家と檜山安東家を統一した人物である 下 秋田山龍穏院山門に掲げられてる扁額 安倍萬世植福道場 とある 安倍の文字に奥六郡蝦夷俘囚の長である安倍氏一族の末裔の主張がいかにも清々しい