安積の沼跡  
上 安積の沼跡にある説明板
左 安積沼跡  両端が一段と高くなり底を東北本線が走る 低地は田圃になっている 更に細長く北西に延び国道4号線を横切り日和田の野球場まで低地が続く 沼の底に安積沼跡の看板が立っている
 すぐ後ろはJRの日和田駅で 北に安達太良山が見え 右側の近くには奥州街道安積山公園があり古来多くの風雅な都人の心を騒がせた地域である事が想像される JR跨線橋かつみばしから眺めたもの

日和田の領主伊東一族安積左エ門忠繁はこの日和田で没しその墓を五輪塚という 彼の娘菖蒲は此の沼で身投げしたという ここに立つと昔沼のほとりの高台であった事がはっきりわかる
下 悲運の伊東氏一族忠繁の五輪等塔
この背後は安積の沼跡の低地になっている
古代から中世前半凡そ400年にわたり都で歌枕としてもてはやされた安積沼は中国楼蘭のオアシスの様に忽然と中世以降その姿が消えてしまったのか?資料には猪苗代湖と見まごうばかりとか、7ヵ村尽くす沼とか、千鳥が鳴いていた等載っていて話半分でも相当立派な沼だったらしい。何時の頃か日和田東部の八丁目村の短山を切り開いて阿武隈川に沼水を落とした と書いてあるのは興味深い事ではあるが推測の域は出ていない。沼の辺の五輪塚の塚野さんのお婆ちゃんが 「あそこに菖蒲池があったよ 昔は安積沼があったという話だない。今も水があればダムみたいでよがったべない」といっていた。意識して沼といわれる廻を一回りして見ると確かにここには大きな沼がかつてあった地形である事が分かるのです。それにつけても最後まで残った菖蒲池がグランドにされてしまった事は重ね重ねに残念である。菖蒲と云えば花かつみなる花は幻の花ともいはれ その正体は 菖蒲 アヤメ 杜若 真菰(かたばみ) 姫しゃが等いろいろ云われる. それについては能因(988年〜1058年?)は歌集では『真菰』であると言い、又源俊頼(1055年〜1129年)はその歌学書俊頼髄脳の中で『近頃は浅香の沼の歌にあやめを詠み込むことが流行してるいるが、これは間違いで花かつみとは真菰のことである』と書いている。郡山では市の花として姫しゃがを指定している。又陸奥守実方は5月節句に菖蒲を飾る習慣の無かったこの雛の地方には菖蒲は生息してなかったのでこの沼の花かつみを代用して祝った とあるのも新鮮だ。(平成14年7月11日) 
郡山市入口 手前が国道4号線 奥の低地が安積沼跡
 
左 安積の沼跡 上段左端の安積跡とは反対からの沼跡である 国道4号線は一段高くなっていてその両側も一段と高くなっていて間が低地である 確かにここには安積の沼が存在した証である 最後まで残ってた安積沼の名残りの菖蒲池が残念ながら十数年前に野球場にされてしまい完全に沼の面影は消えた
 奥の細道の安積の沼の一文の碑
 日和田の安積山公園

等窮が宅を出て五里計 檜皮の宿を離れてあさか山有
路より近し 此のあたり沼多し か津み刈此もやゝ近うなればいづれの草を花か津みとは云ぞと人々に尋ね侍れど更知人なし 沼を尋 人にひとにか津みk津みと尋ねありきて日は山の端にかゝりぬ 


 
 安積の沼 其の2