安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに  万葉集  巻16 3807
阿佐可夜麻 加気佐閉美由流 夜真乃井能 安佐伎己々呂乎 和可於母波奈久尓
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花  古今和歌集 王仁(わに)
奈迩波ツ尓 佐久夜己能波奈 布由己母理 伊麻波々流倍等 佐久夜己乃波奈


  どう云うわけか あのスーパー作詞家紀貫之が。古今和歌集を編纂するにあたってその序文でこの二つの歌を激賞してしまった。『この二つの歌は和歌を勉強する人の父と母の様な物だから 詠んだり書いたりする初心者は始めに覚えなければいかんよ』と書いてしまったのである。つまり手習いの参考書に選ばれたのだ。当代一流の歌人の推薦なので禰子(ねこ)も釈子(しゃくし)『安積山』と『山の井』に飛びついてしまったのである。全くこの当たりは現代の教育ママと何も変わってはいないのです。お蔭様で福島県郡山市はその『古典の中の芳しき地名』として今日にいたるまでその恩恵に浴している訳であるが、その為にこの安積山 山の井という一級の歌枕の地が同じ郡山に二つも存在してしまい、どちらが本物かもはや知る由もなくなってしまった。  それは日和田町片平町にである。この歌の逸話は多種あるがその代表が葛城王と安積釆女の物語である釆女とは5〜6世紀大和朝廷えの帰属の証に地方の国司 豪族から献上させ天皇の私物として身の回りのお世話や寵愛をうけ年季が明ければ国に戻る女性の事である按察史兼班田使葛城王は即位したばかりの聖武天皇の名代として多賀城のオープンセレモニーのため陸奥にやって来た(724年)と言う。その帰りにここ安積の地に立ち寄った。中央の高級官僚の接待は昔も今も大変だが、たまたまこの時の国司の接待がこの官僚のお気に召さず機嫌を害してしまったのである。その時(現役ではなく年季明けて戻っていた引退した釆女)の釆女がすかさず杯を持ってきて彼の膝に手をおいて彼の歌を耳元で囁いたのである。『ここの山ノ井に映る安積山は浅くしか映りまませんけど 私はそんな浅い気持ちで彼方様を思ってはいませんのよ お噂は兼がねお聞きしておりました ずっと以前から深く々お慕い申しておりましのに さぁ 機嫌をなをして一杯いかが・・・・・』と。田舎釆女とはいえさすがかつて天皇にお使いした強(したたか)さである。

       安積山 山の井         
 それでたちまち葛城王(後の橘 諸兄)はご機嫌をなをされ 一件落着した上に、さらに税金まで免除してもらったという他愛のない逸話である。この釆女の制度は大化の改新の詔の中に『凡そ釆女は郡少領以上の姉妹及び子女の形容端正なるものを貢げ・・・・』とあるが恐らくはそれ以前から朝廷へ忠誠の証としての人質として差し上げられていたのでしょう。男性の場合は兵衛(とねり)として徴用されていたのです。当初貢がれた釆女は天皇の私物として他のものから隔離され帝の寵愛を受けるものだったが改新後律令制度整えられると釆女の制度も変わり大奥の釆女から後宮の下級女雑役まで多様化したらしい。中には吟詠釆女もいたらしく万葉集や他の釆女が詠んだ歌を誦詠する任期切れのた放浪的釆女もいたらしい。安積釆女もそういう釆女だったのではないかと云う説もある。然しこの釆女は違うのです。其の名は「安見児」。彼女を讃えた歌があるのです。

吾はもや 安見児得たり 皆人の 
               得難にすといふ 安見児得たり


このはしゃぎ振りを詠んだ人は何と大化の改新の立役者の中臣鎌足(藤原鎌足)と聞いたら驚くでしょう。彼は天智天皇
(中大兄皇子)から釆女安見児をプレゼントされたのです。天皇に寵愛された付加価値の付いた釆女です。誰もが『まさか』と思われた得難い才色兼備の釆女だったのです。勿論彼には鏡王女と云う正室はいるがこの欣喜雀躍の喜びようは何とも男の本音が出てて微笑ましい。彼女は正真正銘の雲上の釆女だったのです。いづれにしろ郡山では8月には釆女祭りまで始まり、喉から手の出る奈良市とは姉妹都市まで結んでしまうと言う熱の入れようになってしまったのだ。(平成14年7月7日)
(参考文献 郡山市史1 安積郡衙ロマン アサヒグラフ 安積 歴史春秋社)
 
右は二つの安積山 
上は額取山  郡山市西部の逢瀬町 
下は安積山
 郡山市日和田
 手前の道路は旧国道4号 奥州街道