陸奥の 思ひしのぶに ありながら 心にかかる 阿武の松原 金葉和歌集 太宰大弐長実
末遠く 千世の御かけを 頼む哉 ちきりあれとそ あふの松原 金葉和歌集 藤原 忠良
はかなしな 心つくしに 年をへて いつとも知らぬ 阿武の松原 千載和歌集 源 経房
あぶ」ではなく「あふ」の松原と読むのだそうだ。福島市北部の伊達町箱崎で 阿武隈川の東部一帯に広大な松原があったそうである。その阿武隈川の清流にある箱崎の渡しから東部一帯は当時三保の松原(静岡県清水市三保海岸) 生きの松原(福岡県今津湾)と共に本邦三大松原の一つに数えられた景勝の地であったというのが信じられない。然しその松原も次第に消え失せ、昭和29年樹齢1000年の最後の一本の古松の死により 今はただ石碑がひとつだけが立っている殺風景な 田んぼとりんご畑があるだけの寂しい所となってしまったのである。もはやそこが白河法皇の命により源 俊頼が編纂した(1126年)勅撰集に載る有名な歌枕の地であったとは誰もが想像さえできない。この辺りは俗称原町地区とよばれその昔福島・相馬原町を結ぶ唯一の旧道で 近くにある阿武隈川に突出している景勝の愛宕山からの眺め抜群であったろうと思はれる。然し芭蕉は1689年奥州紀行では全くその記載がないのである。その100年後(天明7年)に書かれた「信達歌」でも儒者熊阪台州は葛の松原も 阿武の松原も知る人が少ないと書いているので 相当前から松原は縮小していたのかも知れない。いずれにしろ千年前の教養ある都人の心を捕らえた場所である事を知る人が今日更に少ないのは寂しい限りです。因みに金葉とは「最も優れた言の葉」と云う意味である
(平成14年2月29日)(伊達町史 伊達町 阿武隈川舟運図 建設省東北地方建設局福島土木事務所 阿武隈の瀬音は高く 金子與志雄)
右 この石碑に上の歌が刻まれている以外に三保の松原.生きの松原に匹敵する景勝の地を想像する事は困難である 今小さい松が一本だけ申し訳なさそうに立っているが何とか減反地を活用してもう少し植林できないだろうか 隣に住む小野さんのお話では凡そ40年前最後の松の大木が中が空洞になり蝙蝠などが巣をつくり雪が降ると枝が折れ危険になったので伐ったそうだ その切り株の跡に碑を建てたそうです 阿武の松原の碑 近所以外知る人は少ない |
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上 箱崎の渡し
箱崎の渡しがあっという所で伊達町箱崎箱石にあり箱石の瀬と呼ばれた 近所の小野さんの話で川向には伊達茶屋と呼ばれる所があるそうです 当時船待ちの為の休息所だったという |
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