左 書物『阿武隈の瀬音は高く』に載ってる貴重な松原の名残の写真  家の後ろには松の枝が見え 人物が最後の松の大木の前に立っている 砂利道の旧道塩の道とも言われる相馬中村街道が愛宕山の麓を通るのが僅かに残る松が1000年前の面影を残している この田圃一面が松いっしょくだったのです  左 県指定文化財 旧亀岡住宅
このモダンな住宅は明治30年頃に伊達郡伊達崎村に(現在桑折町伊達崎)に建てられたものである 建て主は養蚕・蚕種製造業の亀岡正元氏で完成までに10年も要したと云う擬洋風建築である 外見は立派な洋風だが中は完全なる純和風の書院造りなのです 洋風を意識しすぎて窓や戸は全てガラスで障子戸は僅か一か所のみと云うアンバランスな面もあるが素材は素晴らしく丸森産欅・秋田杉・紫檀・鉄刀木・黒柿・阿武隈川の埋れ木等は見事である 棟梁は飯坂の小笠原国太郎で国登録文化財の飯坂花水館奥の間も彼の手になるのです それにしても当時の村人はさぞビックリし事でしょう と同時に明治初期この辺りの養蚕。蚕種産業の繁盛振りを垣間見ました(保原総合公園内
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下 初代伊達朝宗の居城
東北の英雄独眼流伊達正宗もこの小さな高子館(高子岡城)からの17代目の当主なのである  伊達家の祖伊達朝宗の居城跡 彼は阿津樫山の合戦で戦功をあげ伊達郡を賜り苗字を中村から伊達に改めた 山頂の社は鎌倉鶴岡八幡宮を模したもので亀岡八幡宮とも呼ばれ伊達家移遷とともに移り現在は仙台市川内亀岡町に鎮座している   往時はこの小山の下を阿武隈川が流れていたと言う この反対側には高子沼があり結構堅固な居城だったに違いない 然し北部6キロにある桑折町にある西山城がありそこが最初の居城と言う説もある
たがためか あふの松原 なをとめて 
    我につれなき 色をみすらん
  続古今和歌集 大納言経房
なをたのみ 陸奥にまで きたれども
          いづらは人に あふの松原    
有房集 源 有房
時雨だに つれなき色は えぞそめぬ 
       名のみなりけり あふの松原
      宝治百首 資季
年ふれど あふの松原 よそにして 
     いろもかはらぬ 嘆きをぞする
    文治二年歌合せ  棟範
すゑとほく 千代のみかげを たのむかな
       契りあればぞ あふの松原
   千五百番歌合せ 忠良卿
いかにせん つれなき色に としをへて
         その名も知らぬ あふの松原
     嘉元百首 冬平
こぐ舟の 風にまかする ほにだにぞ
      ことをしへぬ あふの松原
   拾遺愚集 藤原定家 
 

阿武の松原 其の2