上中  国重要文化財佐竹寺 常陸太田市
創建は寛和元年(985)花山天皇の勅願で元蜜上人が開山したとと伝える その後佐竹氏初代昌義が治承元年(1177)寺領として300貫の土地を寄進し6代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願所として再興するなど佐竹氏の隆盛と共に寺運も栄えた 然し天文12年(1543)兵火にかかり焼失したが天文15年18代義昭によってこの地に再建された 桃山建築様式の先駆けとなる室町時代の由緒ある建築物だそうで明治39年には国の重要文化財に登録された(説明板)  佐竹氏は清和源氏の家系河内源氏の流れで父は前9年・後3年の役で有名な源頼義義家・義光は兄弟である 佐竹氏は弟新羅三郎義光を祖としていて甲斐源氏の武田氏とは同族である 義光の孫で義業の子昌義常陸国久慈郡佐竹郷に土着した事により初代佐竹を名乗るようになった 慶長7年(1605)19代義宣の時に関ヶ原合戦へ参戦せず中立策をとり上杉景勝との密約が発覚したために徳川家康によって秋田仙北へ転封された この様に常陸太田市は味のある町なのです
   御成り道 華美を嫌った光圀公は隠居の際諸方から送られた調度品を一切持ち込まず僅かな身の回り品と修史編纂事業(大日本史)に必要な沢山の書物のみを運ばせたという 元禄3年(1690)引退挨拶に江戸城に登城した際ねぎらいの言葉と共に権中納言に任んぜられた(中国名・黄門) 固辞したが強い勧めでもったいなくも拝受し詠んだ歌が
   位山に 登も苦し 老いの身は 麓の里ぞ 住よかりける
左中 西山荘 西山御殿への石段  ここ太田の地は500年に渉り秋田へ移封された佐竹氏の本拠地でした


袋田の滝 其の3



 
 
大の関跡を国道349号を南に下ると常陸太田市がある そこには水戸徳川家累代の墓地がある 平成19年7月に国指定史跡にされた水戸徳川家瑞龍山墓所 残念ながら大震災以降大規模修復の為入山不可である 当墓地は当主・正室・世継に限られ側室・庶子は別域に墓所がある 初代威公(頼房)〜14代敬公(圀斎)まで夫婦一対の墓はここだけである
   突き上げ御門(表門)と西山荘 幕府より隠居を許された二代藩主光圀公は佐竹家ゆかりの地常陸太田を隠居の地と定め元禄4年(1691)から元禄13年(1700)12月7日亡くなるまでの10年間過ごされた隠居所・西山荘は西山御殿と呼ばれている 表門より裏門の方が立派なのは彼の人柄でしょう