沼二つ 通は鳥が巣 吾が心 二行くなもと なよ思はりそね 万葉集巻14- 3525

『沼二つに通う鳥の巣は二つだけれど 私に限って心二ヶ所に通っているなんて思い込まないでね』とでも訳すのでしょう。何時の時代も恋に疑心暗鬼はつきものである。所でこの二ツ沼残念ながら現在は一つになってしまった上に さらに半分になってしまった。この雛の里広野町の数少ない知的史跡なのに。この沼は常陸から陸奥の浜道りを通り多賀城に到る官道として719年(養老3年)駅家10が設置された広野町の浜街道沿いにあったのです。続日本紀 養老三年閏七月廿一日(719年)に『石城國始置駅家十処』とある。つまり石城(いわき)の國独立に伴い、翌719年に國を縦断する官道を新設し海道駅家(うまや)を十箇所設けた 言うのだ。駅家は凡そ16km毎に置かれた。現在菊多郡と亘理郡は凡そ160kmだから正に記述通りである。然しどう云う訳かこの官道早くも811年(弘仁2年)には廃止され替わりに常陸から久慈川沿いを白河に抜ける常陸道が新設されたのである。日本後紀 弘仁二年四月廿二日には『廃陸奥國海道十駅、更於通常陸道、置長有、高野二駅 為告機急也』とある。この時から浜道りは交通不便の後進地帯として今日にいたってしまったようであるが 2002年(平成14年)になってこの町まで待望の常磐自動車道路が完成したのである。実に1200年振りの官道の新設なのである。お蔭でアクセス道の拡幅の為名所の沼の一つは枯れ もう一つは半分になってしまった訳である。二つの沼からさえこの様な歌を詠むことの出来る古代の人に比べて我々現代人の感受性は果たして何処え行ってしまったのであろうか。考えさせられる歌名所である。(平成14年7月28日)(参考 相馬・双葉の歴史 郷土出版社・広野町史)

歌に詠まれた二ツ沼の一つ 二つあったのでしょうが新しい4車線の国道6号線の為に一つは埋め立てられたのかもしれない 
島田帯刀については今や殆ど知る人は少ないでしょう 天保4年大飢饉・同6年の寒冷地震津波・同7年の奥州大飢饉に際し窮状を見かねた帯刀は幕府に無断で年貢米の取り立てを中止し貯蔵米まで分け与えたのです その責めを負い解職されたが領民の嘆願で復職したと云う かれが代官として支配していた双葉郡富岡町からいわき市まで彼を讃える島田恩慈碑が14もあると云うのには驚きました 五里八幡とは源頼義が前9年の役で奥州へ下る際鎌倉鶴岡八幡を起点に石清水八幡を5里毎に勧請した神社で 県内では勿来の植田八幡・平の飯野八幡・広野の楢葉八幡・川内村の八幡神社等があり相馬新地町駒ヶ嶺には五里八幡の大イチョウがある 右は御多分に漏れないこの鄙びた地でも血なまぐさい戊辰戦争があったのです 事に二つ沼の地には西軍の芸州藩(広島安芸藩)の戦士が多かったよう 
 二つ沼の隣にある戊辰戦争古戦場の碑
 
二ツ沼 双葉郡広野町


左端 五里八幡楢葉八幡神社碑(左)  と島田帯刀の碑(右) 広野町
右中 二つ沼の傍にある万葉の歌碑