陸奥や 岩瀬の森の 茂る日に 一声暗き 初ほととぎす     紀 貫之(860〜945(歌集不明・市担当者)
かくとだに 思ふ心を 岩瀬山 下行く水の したかくれつつ          徳大寺左大臣実定
陸奥の 安積の事を 人問はば いかが岩瀬の 森は答へむ           読み人知らず
陸奥の 岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる          読み人知らず
かずならぬ いはせの森と きくからに 身をしるあめは 時雨なりけり  俊忠集 藤原俊忠
神なびの 石瀬の杜の いはずとも しれかし下に つもる朽ち葉  拾遺愚集 藤原 定家
陸奥の 二木の松を 人問はば 岩瀬の森の 西と答へよ             不明 ?


勿論陸奥の二木の松とは宮城県岩沼市にある武隈の松の事であるが岩瀬の森の西ではなく北の方角でしょう。それ程当時の陸奥の距離感は遥か彼方の地だったのでしょう。あの平安王朝文化の華 清少納言(966〜1025)は 枕草子『森』の段で全国の歌枕の森を21程あげているが なんと陸奥福島県を3箇所も載せているのは真に重要だ。きくたの森(勿来) いわせの森 うたたねの森(白河)である。但しきくたの森は未詳であるが他に其の名はなく、石城に知名度のある菊田の柵があるので陸奥としたい。問題はいわせの森である。同名で知名度の高い奈良大和の国でこれまた有名な藤原俊成が

               散らば散れ 磐瀬の森の 木枯らしに 伝へやせまし 思う言の葉

と詠んでいる。清少納言がどちらの(いわせ) を指したのか迷う所だが、陸奥に住む私としては須賀川の地にしたい。何故かと言うと古今集の選者で当代随一の人気スターのあの貫之が、 清少納言の約100年も前に既に陸奥の岩瀬の森詠んでいる言う事は、身近にあって総てを知り尽くした大和の森よりも、遥か彼方の異境の森の方が女の想像力を掻き立てた可能性がある。近くの神様より遠くの神様の方が有り難い と同じ心理だ。更に彼女の恋人藤中将実方が左遷されて陸奥守として陸奥に赴任していた事情もある。恋する女性として無意識に意識が陸奥にあるのは当然でしょう。この森は現4号国道より東500m位の所を通っていた旧奥州街道沿いにあるが、そこも区画整理で道路拡張されて交差点となってしまった。近くを流れる釈迦堂川の岩瀬の渡しを渡り、岩瀬の森を右にして奥州街道を下ったのだが今はごらんの様に、鉄筋コンクリートでその昔ユッサユッサ橋(須賀川の伝承)と呼ばれた面影は無い。須賀川と言えばここに一週間も逗留した芭蕉ばかりが有名だが、この岩瀬の森も(中臣鎌足神社がある)歌枕としてもっとPRにしたいものです。。何故あの鎌足がここに出てくるかと云うと長々しいが、後鳥羽天皇の御世鎌足公14代の孫藤原遠義の長男波多野筑後守より11代関東将軍藤原義定の次男小次郎義政が文治元年(1185)に当岩瀬郡四つ清水城(岩瀬の森)に在城した折建久元年(1190)鎌足大臣霊を奉斎したのに始まると云う。なお『みつまき山』とは岩瀬の森のことであるまた岩瀬は石背の国で、須賀川はその国府があった所だが、718年独立して僅か8年(726年)で陸奥の国に再編入され、さらに奈良時代中期に石背は磐瀬に改名されると云う、時の国策に翻弄された所でもある(平成14年6月5日)(参考 須賀川市史・岩瀬須賀川神社誌・長沼町史・南奥ふくしまの古代史 歴史春秋社・須賀川石川岩瀬の歴史 郷土出版社)


→須賀川市長沼町には県重要文化財で郡惣社式内社桙衝神社があるのです 日本武尊が東征の折この地の亀居山に八尋の桙を衝きたて武運長久を祈念した由緒ある神社である そして石背国造神社の前の道は勢至堂峠を通って會津に至る道なのです 御存知のように會津は国重要文化財大塚山古墳等の様に大和朝廷に通じる陸奥でも特異で高度な文明の地だった事を考えると白河から會津への道は有史以前からの重要なルート(国道294号)だったのかもしれない そして秀吉が奥州仕置きで會津へ下ったのもこの道なのですから この鄙びた田舎の町が実は有史以来極めて重要な位置を占めていたのかも知れないと云う古代の夢をのぞかせる地なのです
  県重要文化財式内社桙衝神社 須賀川市長沼町の亀居山の麓にある 岩瀬郡一座桙衝神社と記された由緒ある神社 武神である武甕槌命と日本武尊を祀る  日本武尊が東征の折この亀居山に八尋の鉾を衝き立て武運長久を祈ったと言う 亀居山々頂の磐座には祭祀壇跡の遺跡がある  実は表郷村にある東北最大最古の武矛山の祭祀壇遺跡とその下に都々和気神社があるのと全く同じ遺跡なのです 日本武尊は常陸から久慈川沿い八槻・表郷・白河・旧岩瀬郡へと東征した証か?亀は神の訛りからか?
 石背国造神社
岩瀬郡長沼町(現須賀川市)に石背国造神社がある 国造(くにつこ)とは大和朝廷によってその一地域治めていた豪族の事である 国造本紀と云う古い史書によると「石背国造は成務天皇によって建許呂命の子建弥依米命を以て国造に定め賜う」とあり同時に福島県内に菊多(勿来)・阿釈(安積)・染羽(標葉)・浮田(宇多)・信夫・白河・石城(いわき)の各国造が任命されている ここの宮司さんの苗字が磐瀬氏と云うのですが祭神は勿論初代国造の建弥依米命を祀るが当初は戸上神社・国造戸上神社と称していた 続日本紀によると岩瀬郡の豪族で最初に登場するのが磐瀬朝臣の姓を賜った吉弥候部人上(きみこべひとかみ)なので人上(とかみ)を石背国造18世として人上を戸上と書き換えて戸上神社としていたが明治4年に石背国造神社と改称したのは正解でしょう 名は体を表すから j時代により石背・石瀬・磐瀬・岩瀬・岩代の相違いについては町の図書館で聞いたが不明であった 

     岩瀬(石背)の森

  
日高見山長沼城址
旧岩瀬郡にある長沼城日高見山と呼ばれる小山にあり本丸城跡には日高見稲荷神社があるのです そして旧岩瀬郡今泉の白方神社の祭神は日高見国御影神と云うのです 日高見国は蝦夷国の別称である 
又常陸・下野・陸奥の接点にある八溝山は往古は日高山とも呼ばれていた 伝承とは言えこれだけ多くの旧跡の存在は古代この地の歴史的重要性を物語る 
あの豊臣秀吉も1590年{天正18年)奥州仕置で白河口から会津に入る際8月7日ここ旧岩瀬郡の長沼城で宿営し有名な勢至堂峠を越えて猪苗代湖の南西から会津に入った途上にある地なのです 地味な地区だが見逃せない地だ