上 岩瀬の森 紀貫之 清少納言も憧れた鎌足神社のある岩瀬の森 別名みつまき山だがどうして都にまで知られたのだろうか不思議だ
五月雨に 岩瀬の渡し 水越えて みずまき山に 雲ぞかかれる
詠み人知れず
下 天然記念物旧奥州街道松並木須賀川の南 矢吹町 数百mもある松並木は白河藩主松平定信公の時代に整備されたと言うが今の赤松は明治時代に植樹されたものだが奥州街道の風情を残 |
鎌足神社 須賀川市
その名の通り祭神は中臣鎌足(後の藤原鎌足)である 中兄大皇子(後の天智天皇)と共に蘇我入鹿を板葺の宮で暗殺して大化の改新を成し遂げた人物でご褒美に藤原の姓を賜ったのです 日本の4大姓と云えば橘・藤・源・平で藤原以外は全て天皇をその祖としてるから藤原姓が如何に由緒ある姓であるか分るでしょう 岩瀬風土記には二階堂氏は藤原氏の末裔なれば祖先鎌足公の御社を岩瀬の森に建立したという(神社栞) |
鏡沼(かげ沼) 須賀川市
芭蕉は奥の細道で白河から須賀川に入る前に『とかくして越行くまゝにあふくま川を渡る 左に会津嶺高く 右に岩城・相馬・三春の庄 常陸・下野の地をさかひて山つらなる くかげ沼と云う所を行くに 今日は空曇りて物陰うつらず』と書いてる それが現在の鏡沼跡の僅かに残った池であるが往時はもっと広大でこの地は一種の蜃気楼現象が現れる地であったという 道行く人が水中を歩く如く見えるので有名だったという |
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右 紀 貫之の歌碑
鎌足神社境内にある
左 日本三大火祭り
天正17年(1589)伊達政宗は会津葦名氏を滅ぼしその余勢をかって須賀川城攻撃に向かった 当時城主は二階堂盛美の後室の大乗院であり然も政宗の伯母さんであったのです 10月26日政宗は大軍を率いて釈迦堂川北側の陣場山に本陣を構え川を挟んで火ぶたが切られたのです 然し重臣守谷筑後守が裏切り二階堂家菩提寺長禄寺に放火したため城と城下が火の海となり家臣団も多くが城と運命を共にしたという 松明あかしは討死した多くの人々の霊を弔うために凡そ400年以上も前から始まったという 現在は毎年11月の第一土曜日に行われている 5月武者のぼりの産地の須賀川だが今でも伊達政宗の武者絵だけは描かないという(観光用チラシをコピー) |
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右 中宿橋
釈迦堂川
岩瀬の森 其の2
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岩瀬の渡し
陸奥の 岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる 読み人知らず |
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上左端 岩瀬の渡しの歌碑 上中左 釈迦堂川にかかる須賀川橋でその手前が渡し跡 土手下に歌碑がある 上中右 みつまき山(岩瀬の森) 上右端 鎌足神社扁額 |
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岩瀬牧場 旧宮内省御料牧場小学唱歌牧場の朝発祥の地 福島県岩瀬郡鏡石町桜町225 明治13年当事の伊藤博文内閣により宮内省御開墾地として創設された 140年の歴史ある日本最初の西洋式牧場 明治40年に日本最初のホルスタイン種牛をオランダから13頭輸入しこれを基盤に欧米式大型酪農経営がすすめられた 種牛を輸入した際にオランダから友好の証として記念に鐘が贈られ後に唱歌牧場の朝の歌詞となった |