片平の 森の木の葉は 散りぬとも 想ひは山の 松ぞ変はらぬ            夫木和歌集 詠み人知れず
かたらひの 森の言の葉 散りぬらん 思ひの山の 松ぞかはらぬ          古今和歌六帖 大伴のらう女
陸奥に ありといふなる 片岡の 岡をわが身に そふる頃かな            夫木和歌集 琵琶の左大臣
陸奥の 片平越しに 袖振りて 手越に見える 吾妻山かな                  夫木和歌集

果たしてこれらの歌が安積の片平か否かは計りかねるが郡山の歌枕と言えば安積山山の井 安積沼が代表的で この片平については郡山市史を含め中々資料が少ないし、知名度もあまりないのは寂しい。然しあの有名な清少納言はその枕草子の211段(おかは)で『岡は。ふなおか(山城國)。かたおか(大和國)。ともをか(山城國)は、さゝのおいたるがおかしき也。かたらいのおか(不明だが上の古今六帖の歌を載せている。人見のをか(山城國)。』とあり注釈には
             さ夜ふけえて かたらひの岡の 郭公 ひとりねざめの 床にきくかな
とあり『此の歌何に出たるにかおぼつかなし。もしはかたらひかたこひの訛りか とある』 つまりかたひら・かたおか・かたこい等の関係は中々難しいようだ。片平町のパンフレットによると、凡そ1850年前(第13代成務天皇)西暦150年頃に勅命により
比止祢命(ひとねみこと)阿尺(あさか初代国造に任ぜられその子孫が土着したのがこの片平と言う。第15代応神天皇(4世紀後半〜5世紀前半)安積に改められ、45代聖武天皇時代(在位724〜756)には片平町岩倉の「塩の入」の地がその中心だったと言う。今の郡山駅より西北西約5kmの所である。ただ駅前の清水台にある安積郡衙跡は7世紀末〜10世紀前半と云われているので難しいところではある。それは兎も角片平の森について尋ね歩いたが片平町ふれあいセンターの職員さんを始め殆どの方が要領を得ないのである。片平の3ヵ寺のそれぞれの御住職さんに聞いてもはっきりしない。西の寺の奥さんは『向かいの伊東氏の居城跡ではないか。昔は今よりも立派な森のようだった』 と話していた。中の寺の御住職さんも不明だったが隣を走る市道長橋1号線は大変古い路で古代はここしかなかったと言うのが印象的でした。この北寄りに岩倉という所が有り何となく信憑性を感じる。東の寺のご住職さんは地元の方ではなかったが、たまたまこの寺に
              かたひらの 山は紅葉の 色そえて 花よりまさる たのしかるらん  廣修寺山門わきにある歌碑(右)
と言う地元の信用金庫の理事長さんが寄贈した石碑が立っていた。その詳細は知るべくも無いのですが山も岡も森も歌の世界では同じ様な意味の場合が多く 若しこの歌がこの寺の事を歌ったとすればこの3ヵ寺のある小高い岡の事ではないかと思はれる。果たして如何なものだろう。尚片恋は片平から 思いの山は吾妻山の事であるらしい

(平成14年7月4日)(枕草子集註 思文館出版  郡山市史1) 
                                       

                         片平の森
曹洞宗深谷山廣修寺 片平町寺下 片平城址にある初代城主伊東祐長(頼朝の忠臣工藤祐経の次男)
工藤祐経
は有名な富士の裾野の曽我兄弟の仇討で殺害される 祐経叔父伊東祐親に所領伊東庄と妻を奪を奪われたため祐親嫡男祐奏を射殺した そして今度は祐奏の子の兄弟(曽我)が父の仇として祐経を討った仇討ちの繰り返しの事件