郡山西部の片平は鎌倉の御家人工藤祐経ニ男祐長が入部したところである。仙道記には伊東氏の祖工藤祐経が頼朝の奥州征伐文治5年(1189)に「比類なき働きせし・・・軍功の忠賞に依、安積郡一円並びに安達郡の内玉ノ井・茨瀬・箕輪・名倉四か村を領地に賜りし・・・」ある。又『祐経は伊豆国に住し、次男伊東六左衛門祐長安積郡に入部し片平城に住す』とある。祐長(安積六左衛門尉)は凡そ嘉禎2年(1236)ごろ安積郡に入部土着化したようだ。観応2年(1351)総領左衛門祐信辺りからは関東伊豆の本宗家から離れて安積伊東氏として自立する。然し安積郡は15世紀後半から西から會津葦名・東からは田村氏、南からは岩瀬郡二階堂氏、さらにその後北からは伊達氏、常陸からは佐竹氏が安積郡を草刈場とする争奪戦に巻き込まれたため安積伊東氏は戦国大名にはなれず天文20年(1551)には葦名・田村氏が講和を結んだ時には葦名氏から養子を受ける事により存続したが安積の大部分が葦名支配となる。天正16年(1588)伊達氏と葦名・佐竹連合軍による郡山合戦後の講和では安積郡は二分されたが翌天正17年磐梯山麓の摺上原の合戦では伊達氏が葦名氏を破り安積郡一帯は伊達氏の支配下に入るのです。然し翌天正18年の秀吉の奥州仕置で伊達氏は安積・會津を没収され蒲生氏の領土ななる。ここに安積伊東氏一族は鎌倉時代以来400年の伊東氏は終わりを告げ伊達領に移り住む事になる。
 所で有名な曾我兄弟仇討は兄弟に陽が当たり工藤祐経が悪役に見える。が祐経の名誉の為にその発端は兄弟の祖父伊東祐親にある事を記しておく。頼朝の富士裾野の牧狩りの折 祐経は建久4年(1193)5月28日仇討ちに18年を要した曽我兄弟により殺されます。父親を早く亡くした稚い祐経は従兄の伊東祐親の元で育てられ其の娘(万劫御前)とも結婚していた。然し祐経が平重盛の家臣として上洛中に兄弟の祖父祐親は工藤家領地の乗っ取りや妻を祐経と離婚させ土肥実平と娶わせてしまったのです。当然深く祐親を恨んだ祐経は安元2年(1176)狩に出た祐親を待ち伏せしたが郎党が放った矢は不覚にも嫡男の河津(伊東)三郎祐泰に的中した。その時の稚子が十郎祐成と五郎時到である。 未亡人となった母の満江御前は祐親の甥の曽我祐信と再婚して兄弟は曽我氏を名乗ることになる。以上の様に仇討の発端は兄弟の祖父である伊東祐親の卑怯な手段による横領にある事を忘れては為らない。同じ伊東一族ながら治承・寿永の乱で伊東一族はは平家方についたため滅んでいくが 工藤氏は早くから源氏につかえて頼朝の信頼が厚かった故に後年安積郡を与えられ祐長が赴任することになったのである。
(参考 郡山市史1郡山市
  片平城から見た三ヵ寺  
洞宗 深谷山廣修寺
  草別大社王宮(おおのみや)伊豆神社 片平町
葛城王(橘諸兄)と釆女春姫縁の草別大社王宮伊豆神社がある この御二人を御祭神として祀る安積ロマンの地で郡山釆女祭りの主役である 伊東氏が自国の守護神伊豆・箱根・三島の大神を併せ祀った うねめ祭りで知られる伊豆神社は今を遡る1280有余年前人皇30代敏達天皇4世の孫美奴王(みぬおう)の御子従四位下葛城親王和銅4年阿尺国按察使兼班田使に任ぜられ当安積地方を開拓し今の郡山の基礎を築いた 後に王の偉業を称え逢瀬川の清流を眼下に安積全域を一望できる現境内に造営した
福島県神社庁HP)
片平の森 その2
    
 
真言宗 矢作山岩蔵寺

臨済宗 霊鷲山常居寺