片平の3ヵ寺 左臨済宗常居寺 中真言宗岩蔵寺 右曹洞宗廣修寺 
後ろの森が片平の森か?鎌倉の御家人工藤
祐経がこの安積の地を拝領 次男祐長がこの森の向にある丘陵に片平城(上舘)を構えた その時片平にあった3っつの寺を城から見えるように一ヶ所集めたとのが始まりと云う 右廣修寺に地域金融機関理事長が寄贈した「片平山・・・・」の石碑がある 工藤氏は伊豆の国の伊東から来たのでこの近辺の地名には熱海とか上伊豆 下伊豆とか伊豆・伊東の地名がある 農作業のおじさんは片平城から望む3ヶ寺は戦国時代なので背後からの侵入を防ぐためだったのではないか 話していた 
  宮王神社境内にある
葛城王と春姫の御歌

釆女春姫と葛城王を祭神として祀る王宮伊豆神社 伊東祐長が建立し二人を合祀した神社

王宮伊豆神社 片平町王宮
この社殿の裏にちっぽけな祠がありました その祠がまさか葛城王の御墓所のものとは思わず撮影しなかったのは残念

下 御墓所の碑 社殿側にある御墓誌
当社主祭神葛城親王は敏達天皇三世孫美奴王の御子和銅四年詔を受け陸奥国安積郷に按察使及班田使として下向され郷人の難を召され免貢→

片平城址 伊東祐長の居城
3ヶ寺の向かいにある 向いの寺の住職のの奥さんは今はあちこち土が削りとられたがここも立派な森だったからこれではないか?とか話していたが確証はない
郡山西部は北は采女伝説の采女神社・王宮伊豆神社・三か寺・宇奈己呂和気神社・石背国造神社・式内社杖衝j神社やもっと南には常陸風土記出てくる式内社飯土用神社等が点在している 古代の東山道は現在の中通よりずっと西よりがメインルートだったのではなでしょうか 
右 御歌
降る雪の 白髪までに 大君に
   仕えまつれば 尊くもあるか  親王

浅からぬ 心ひとつに くみて知る
   我が山の井に 深き色香を  春姫

                       

右中 葛城王祠碑 台座は亀趺と云う中国古代の想像上の霊亀で貴人の碑台石に用いられた 會津松平家墓碑にもある 1795年建立 昔から語り継がれてきた葛城王の尊徳が彫られているが風雨にさらされ文字は磨耗して読めないのが残念 
片平の森 其の3  
葛城王(橘諸兄)の頌徳碑碑 晩年橘一族は藤原氏一族の台頭により不遇をかこつのです  →の御意を賜り朝廷に報告された後再び当社に駐賛され天平宝字元年正月御歳七什四歳にて薨去された よって当社に奉葬祀され此聖地に玉垣を修復して御遺徳に報へ奉る 
権宮太夫36世孫 宮司安藤王尊」 と彫られている
 
葛城王は臣籍降下によって橘諸兄と名称変更する