筑紫なる 匂ふ児ゆへに 陸奥の 可刃利乙女の 結ひし紐とく 万葉集東歌 巻14-3427
都にも たちかふる日は 陸奥の 可刃利乙女の 思ひこそやれ 真庵和歌集 頓阿 |
陸奥国磐城平藩第5代藩主
安藤対馬守信正公 松ヶ岡公園
安政の大獄の張本人で桜田門外の変で暗殺された井伊直弼強硬派に対し公武合体の一環として光明天皇の妹所謂皇女和宮を第14代将軍徳川家茂との結婚を成立させたが尊皇攘夷派の水戸浪士によって襲撃を受けたが一命は取り留めた(坂下門外の変) しかし一部から背中に傷を受けるとは武士の風上にも置けぬと非難されたり女性問題やタウンゼントハリスとの収賄問題で老中を罷免されている 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍に破れている(ウイキペディア) 逃避行の途中いわき市川前町下桶売の地で
旅人の 歩みもしばし たゆむらん
村雨そそぐ 花の萩原
と詠んでいる
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可刃利乙女の碑 平北部の石森山(224・7m)山頂にある
平城
平城は岩城氏改易の後徳川譜代の家臣 鳥居忠政が慶長7年(1602年)入府し築城した 築城21年間の後その功により出羽山形20万石で転封した 青空にそびえる石垣は中々立派ですがこれ以外には目立った遺跡は残っていない
可刃利(片依)
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可刃利乙女・・・・・現代でも通ずる可愛い響きである。「かとり」とは絹織物の事で上質の細い絹糸で織った織物(細やかに織れる絹布)でキギヌ・ウスギヌの意とのことである。言海には『堅織の訳でこまやかに織られた絹布』とある。そして可刃利は古代石城国の片依(かとり)郷(片寄)の地に比定されている。つまり現在のいわき市四倉町上片寄・下片寄である。ここはその主産地であったと言う。万葉集の可刀利乙女は片依の土地の乙女ではなく堅織絹と云う上質の絹を織る少女の意である。 県内には万葉集を含め3つの下紐の歌がある。会津地方には会津磐梯山の
会津嶺の 国をさ遠ふみ 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね。
の歌があり中通りには宮城県境にある下紐の関の
あひ見じと 思いかたむる 仲なれや かく解け難し 下紐の関
がある。そしてここ浜通りいわき市の可刀利乙女の歌である。浜特有の開放的性格でさっさと筑紫の女に浮気をしているのである。あの片寄に許婚がいて明日の命や帰還の保証もない北九州の遠征先なのにである。古代陸奥は現福島県以北を指す。故に福島県には蝦夷対策として著名な関跡が二つもある。白河関と勿来の関である。福島県は東西に長く日本海的気候の会津地方・太平洋的気候の浜通り・そして其の中間の中通りと明確に3区分できる。可刀利のあるいわきを含む浜通り地方は其の気候のように会津・中通り地方ほどの対蝦夷との劇的且つ歴史的事件が無い。これは蝦夷が基本的に漁労ではなく山間・狩猟民族の証かも知れない。当初から大々的抵抗も無く比較的容易に大和朝廷に組み込まれたのはいわき地方の諸国造は茨城国造を中心とする皇室と連なる系譜だからである。大和朝廷の発展を示す国造本記に「石城国造 道奥菊多国造(勿来)・道口岐閉国造(日立助川)・道尻岐閉国造染羽(双葉地方)・浮田(相双地方)・伊具国造(宮城県南部)」などがあり建許呂命(たけころのみこと)が石城国造を賜る」とある。常陸風土記によると「道の口助河から道の尻苦麻村までの多珂国を白雉4年 (653)多珂国造石城直美夜部等による申請で多珂評と石城評に2分した」とある。陸奥風土記逸文にも国造磐城彦の名が見える。蝦夷征伐の彼は八槻郷の8人の土蜘蛛(蝦夷)に敗れたので天皇は日本武尊を派遣した。彼は8本の槻弓・槻矢放ちこれを討った と言う話である。
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このように石城・磐城の名は随分古いのです。さらに多くの古墳や出土品には高貴な人物を連想させるものが多く、全長120mに及ぶ前方後円墳玉山古墳は東北でも3指に入り5世紀前後のもとされる他後田・金冠・神谷作・中田・甲塚古墳など中国・九州地方と同質性を有するものもあるという。これら一連の古墳群に共通なのは神武天皇の嫡子八伊耳命の子孫の多氏(於保氏)で石城国造の系譜である磐城郡大領於保氏(磐城氏)であると云うのである。古来いわき地方は北関東常陸国管内に属していた。後に陸奥国に編入されるが養老2年(718)は石城・標葉(双葉)・行方(原町)・宇多(相馬)・亘理(宮城県伊具郡)と常陸国菊多郡の六郡で石城国が、そして白河・岩背・安積・信夫・会津で岩背国が建国された。東北は一時3国が並立した時期があっが8年後にはやはり陸奥国一国に再統合される。蝦夷的と大和的の堺にあるいわき地方の扱いに中央政府の迷いが感じられる。この様にいわき地方は穏やかで対蝦夷に対する緊張感は少ないとは言えここに磐城軍団が置かれていた(平成12年多賀城市川橋遺跡から磐城軍団を示す「磐城團解 申進上兵士事・・・」との木簡が出土其の存在が証明された)。他に福島県には陸奥七軍団の内白河軍団・安積軍団・行方軍団(原町)が置かれ対蝦夷戦略の後方基地をなしていた。その中で磐城大領の子弟別将大部善理なる人物が延暦8年(789)3月蝦夷の長阿弖流為軍に破れ岩背国の会津壮麻呂・進士高田道成・安積戸吉足等との戦死の記述が微かに緊張感が感じられる。又都から石城国を北上し多賀国府・胆沢鎮守府を結ぶ官道東海道(浜海道)は何故か弘仁2年(811)その十駅が廃止されたのはその後の浜通りの後進性のきっかけとなったようだ。その中で石城の可刀利乙女の万葉歌は実に人間臭くて面白い。防人として九州筑紫に赴いたいわき市四倉町上・下片寄の男の浮気の告白は開けっぴろげで羨ましい。防人の歌はどれも覚悟と悲壮と別離と望郷の歌が大部分なのに四倉の男女は開放的だった。有名な「会津モンロー」「会津の三泣き」と言われる会津の陰性とは対照的なのは古来関東圏に属していたからであろう。今でも人見知りをせぬ陽性の地域性を持って万葉時代と変わらないのが面白い。(平成17年1月22日)(参考 いわき市史 ・いわき文学碑めぐり いわき史跡めぐり いわき市観光協会・いわきの文学散歩・相馬双葉の歴史 郷土歴史出版社・浜通り風土記 いわき歴史愛好会) |