菩提寺長源寺にある鳥居忠正夫妻の墓 
岩城氏の後任の忠政はは父元忠が伏見城での戦いでの劇的戦死により秀忠より御朱印地頂いたのが寺の始まり その後忠正は1622年(元和8年)出羽山形城20万石で転封した


  沼ノ内弁財天
 大同2年徳一大師の創建で正式名は天光山賢沼寺蜜蔵院 その名の通り賢沼には天然記念物の大鰻が生息してるので有名 東海小太郎清衡開基と言う 境内には漁民の守護仏として信仰される沼ノ内弁財天を祀っている
 
  岩城氏11代の墓(上)がある龍門寺岩城氏の菩提寺である 常陸佐竹氏と親交があった岩城氏は北関東から福島の海道沿い勢力を築いたが岩城貞隆は関ヶ原の戦いに参加しなかったため家康によて改易され没落した
龍門寺の茅葺の山門は県指定史跡になっている
上左 天田愚庵の像
愚庵
は安政元年磐城平藩安藤正信の家臣甘田平太夫の5男(久五朗)としてここ平で生まれたのです 彼は戊辰戦争で行方不明になった父母妹を探して全国を探し回るうちに山岡鉄舟の知遇を受け侠客清水次郎長(山本長五郎)の養子になる その時期に出版した東海遊侠伝はその後の次郎長物の原本となったのです 明治20年34歳の時仏門に入り鉄眼と号した 漢詩にすぐれ万葉調歌人として正岡子規にも大きな影響を与えた人物である(説明板) 後の庵は京都伏見桃山の旧居を移築したもの 然し清水次郎長や大政・小政・森の石松等の原作者がここ平出身とは知りませんでした  他に下の歌碑がある
せこやこひし 勢子や恋しと おもふより
     夢に入りしか あはれ我が妹子
ちゝのみの 父に似たりと 人がいひし
       我が眉の毛も 白くなりに
上 愚庵の歌碑 
松が岡公園内
朝咲きて 夕べには散る 沙羅の木の 
 花の盛りを 見れば悲しき

        
   詩人草野新平の生家 現いわき市小川町と云う片田舎であるが相当優秀だったのでしょう 1919年磐城中学入学 1920年慶応義塾普通部 1921中国嶺南大学と中退を繰り返しながら進学している 1960年川内村名誉村民 1983年文化功労者 1984年いわき名誉市民 1987年文化勲章 川内村に寄進した蔵書は天山文庫として保存されてる
  可刃利 其の2