北杉田・七夜桜
七夜桜 はるばるここに 北杉田 やがて都へ 帰る身なれば   中将藤原 実方
                                                
陸奥の歌枕を語るとき忘れられない人が中将実方である。彼は陸奥には縁の深い人だが二本松に彼の足跡があるとは知らなかったのです。偶々二本松市の資料の中に教育委員会主幹根本豊徳氏の文献にその記述がありました。早速捜しに行ったけれど中々見つからない。近所の方に尋ねても実方は勿論、七夜桜についても知る人もいなかった。元々下の碑は旧4号国道(奥州街道)沿いにあったものなのだが、国道改良やバイパス新設等により殆ど人目につかない建築資材、廃材置場隣の寂しい山の斜面に移転されてしまっていたのです。何でこんな所に移転したのか真に残念なことです。世が世であれば冷泉天皇の第一皇子である円融院に気に入られ歌詠みとして宮廷花形の貴公子で三十六歌仙の一人でもある。更に藤原道綱・道信・源宣方等多数の歌詠みとの交流や、清少納言をはじめ多数の女性との交際を持ち源氏物語の光源氏のモデルとも言われる方の歌碑が廃材置き場の隣ではなんとも情けない事である。彼は心ならずも左遷の如く陸奥守に任ぜられ後髪の引かれる思いで下向した。郡山、日和田、本宮、そしてここ杉田の奥州街道は比較的よく当時の面影を残している所だが、その道を辿りこの地点に着いたとき、今は無き七夜桜が満開だったのを見て都の桜に思いをはせたのでしょう。任期を終えて早く帰りたいと。 彼の恋人の清少納言は枕草子の中で実方の出発は9月27日と書き留めてる。初秋だが杉田には春爛漫に到着だ。之は能因『霞とともに発ち秋風の吹く時期に白河に着いた』のと同じ所要時間の表現なのは面白い。いずれにしろこの高貴な方の歌が二本松 杉田にあることを知る人は極めて少ないのは残念な事である。 この歌よりも後拾遺和歌集にある彼の
        陸奥の 安達の真弓 君にこそ おもいためたる  事はかたらむ
と云う歌がある。真弓、槻弓、梓弓といえば古来3大弓の一で安達は(まゆみ)の産地で有名だった。これも前面に出してくれればと思うのだが。いずれにしろこの杉田の地を歌枕とするには余りにも実方に申し訳な(平成18年10月10日) 
  


人目に触れる事も少ない実方の碑
 
安達郡衙遺跡  杉田駅近く旧東山道とおぼしき東町信号を東に1kmも行くと郡山台遺跡がある ここが延喜式頭注に延喜6年(906)正月安積郡を割いて安達郡を置くとある安達郡衙の遺跡なのです 総量で約10トンもの焼けた籾がらが膨大な層をなしていて焼米出土地点として有名な場所で他にも多数の遺物が出土してる  杉田川を見下ろす高台にあり万葉集に詠まれた安達太良山が正面に見える絶景の地にある 字名が長者宮・郡山台というのも何か古代の臭いを感じます