真金吹く 丹生の真朱の 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは   万葉集14-3560
真金吹く里 福島県の太平洋岸には『かなご(金子)』と呼ばれる小字名が多い。相馬郡新地町(古代浮田郡)武井地区にある『金子坂遺跡』は其の名の通り金子石(鉄滓)が沢山出土する製鉄遺跡である。謎の真吹郷の所在地が初めて明らかになったのは昭和63年である。南相馬市原町区(古代行方郡)新田川 鹿島真野川の間にあるその名も金沢地区の小高い丘陵地一帯が当時日本一の製鉄所群があったのです。なんとその数発見されてだけで製鉄炉123基、木炭窯149基、竪穴式住居133軒、掘立柱建物29棟の一大製鉄工場群なのです。恐らくその夜空をを焦がす真っ赤な炎は大化の改新頃から約200年に渡り燃えつずけたのでしょう。つまり古代製鉄のメッカだったのです。それが都でも噂になったのは ここに行方郡衙(泉廃寺跡)とゆう国の役所がおかれ、且つ行方軍団なる当時約1000名の駐屯地まであったからだ。その為都との人的往来は相当ありその燃える炎と灼熱の色が噂の種になってもおかしくない。だからこそ言いたくても言いだせない灼熱の恋の炎でわが胸を焦がすこの恋の歌に詠まれたのも至極当然な事なのである。この丘陵地から遥か北の方遠の朝廷多賀城を望めば眼下には、これも有名な真野の萱原が見えるのです。そしてその先には松ヶ浦現相馬松川浦)とゆう景勝の地を詠んだ歌もあるのだがこの浮田、行方の万葉集の3首は偶然ではなく現南相馬市が1300年前には軍事、行政、工業地帯の中心として如何に中央に影響を与えていたかを示すものだと思うのです。本当に素晴らしい事です。然し今地元の人にそれを知り、自慢でき、生かす人が少ないのは残念なことではある
 (平成14年4月1日)(参考 東北電力パンフ・白河市史資料編・ 律令国家の対蝦夷政策相馬の製鉄遺跡群 新泉社 相馬双葉の歴史株文泉閣) 

国指定有形文化財武山家住宅 19世紀初頭の在郷武士の類例稀な建造物
 
県指定重要文化財 十一面観音立像 鎌倉寺時代の160cmの寄木造
 左 県指定天然記念物郡衙跡前の一葉の松 何故か普通松葉は二本で対になってるがこの松は一本だけなのです 一本の松に二葉と一葉があるのは極めて珍しいという  右 泉廃寺跡の碑 寺とあるが郡衙跡である 一葉の松東の近くである この辺りに行方郡衙があったのです 続日本紀の宝亀五年七月廿日(774年)の記述に『陸奥國行方郡火、焼穀穎二万五千四百餘斛』とあるのです 774年行方郡衙の正倉(みやけ・納税した穀物を保管する倉庫)が火災にあい頴稲(えいとう)25400余石が焼けたと言う 稲の内保存用は穀と呼び諸費用には穎稲(穂首で刈った稲)を用いた 南相馬市原町区泉廃寺遺跡から焼籾が多数出土し記述が裏付けられたのです 今は全て畑である       真吹郷