更にここ真吹の郷は知られざる古代の地区なのである。日本書紀の日本武尊東征上陸の地 竹水門(たかのみなと)に比定されている事だ。上陸地とされる地は3ヶ所程ある。常陸国多珂郡(現茨城県多賀郡) 陸奥国行方郡小高川(現双葉郡小高町) 陸奥国多賀郡(宮城県多賀城市)である。では果たして《竹水門》とはどこなのか? である。武尊の父景行朝(西暦300年前後)の次の成務朝の頃は常陸の国多珂の郡(こおり)は道の尻と呼ばれた苦麻川(現福島県大熊町熊川)までと広大であった事を考えると著者中路正恒氏は小高 原町が妥当であろう と述べている。 当時茨城では近すぎ宮城では遠すぎたのである。確かにこの辺りにはそれに相応しい地名 神社が多いのだ。原町史談なる本によると《原町市高》は多珂神社の当て字で竹水門は《高川》(現太田川)の河口(湊)の事とある。又《多珂神社》は上陸した武尊が戦勝と治安を祈願して高の古内の地に神殿を創設したものである とある。この神社は延喜式内社で極めて古く由緒あるもので「さもありなん」である。同じくこの由緒ある式内社がこの他に行方八社として高座 日祭 冠嶺 押雄等五社が集中しているのである。その内の一つ《日祭神社》は武尊が平定祈願してこの地(大甕)に祭壇を設け天照大神を勧請鎮祭したものであり、又《大甕》の謂れもその祈願の際 祭壇にお神酒を入れた器(甕)に由来していて 神と人(大和政権と蝦夷)の住む境の印として大甕(かめ)を埋め祭壇(日祭)を設けた大変由緒ある名前であるとしている。各地の大甕の謂れも同じようだ。更に大和朝廷の北進がこの地程はっきりわかる所はないのである。武尊東征の後常陸の国の大甕 行方 太田 石上 真野 大井 岡田 多珂 男高の民が移動ととも陸奥の原町 小高にもそのまま全く同じ郷名で定着したのである。常陸風土記行方郡の項には『郡より東北(うしとら)の方十五里に當麻(たぎま)の郷あり。古老のいへらく、倭武(やまとたける)の天皇(すめろぎのみこと)。巡り行(い)でまして、此の郷を過ぎたまふに、佐伯(土着先住民・蝦夷)、鳥日子(彦)といふものあり。其の命に逆らひしに縁(よ)りて、随便(すなは)ち略殺(ころし)たまひき』とあり中々面白いのです。茨城と福島の浜通りに多くの同じ地名があるのはそのためである。それ迄この地は《浮田》と呼ばれていたが文武天皇の700年前後に宇多と行方に分割されたのもその証かも知れない。茨城県日立市久慈町大甕に大甕倭文(しず)神社が多賀山の入り口に、福島県原町市大甕に大甕日祭神社が舘山の入り口にあるのもその因縁でしょう。国史跡桜井古墳 真野古墳群を始め最古の製鉄所さらに行方郡衙 軍団 上記の史実などから陸奥開拓の最先端の地であった事に納得が行くのである。日本武尊は父親景行天皇に疎まれるながらもここ真吹の郷原町まできて荒ぶる まつろわぬ蝦夷どもを征伐して多数の足跡を残してUターンした。其の帰り道山梨県の酒折の宮で詠んだ《新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる と尋ねると傍の老人が かがなべて夜には九の夜 日には十日を》 と返したとある。これが歌の始めとされているのも面白い。ただこの悲劇のヒーローは二度と大和の地を踏む事も無く三重県能煩野(のぼの)の杖衝坂で帰らぬ人となってしまう。ここは日本武尊の知られざる古代の夢とロマンの地であり神話の町でもあるのですがそれを知る人は少ない。(平成14年7月22日)(参考 古代東北と王権 講談社新書 白河市史 相馬・双葉の歴史 鰹a谷分泉閣) |
万葉集巻14-3560の歌碑 東北電力原町火力発電所構内 |
東北電力原町火力発電所内の遺跡製鉄炉
真吹の郷 其の2
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