大和朝廷時代この地は行方郡でありその中でここは多珂郷と呼ばれていたのです 日本武尊東征最北のこの地で彼は戦勝祈願して祀った所を今古内高(多珂)と称されてるのです このすぐ後ろに高川が流れている この川に架かる橋が多珂橋で川が高(多珂・現太田)川である 日本書紀にぴったりの場所である この由緒ある神社は陸奥に13社しかないのです つまり905年に作成された延喜式名神帳に載る神社で殊に霊験あらたかなる明神大社なのです 13の内福島県内には白河郡都々古和気・信夫郡東屋沼・行方郡多珂・会津郡伊紗須美・安積郡宇奈己呂和気・宇多郡子負嶺神社と6っつもあるのは陸奥の中でも福島県がいかに早く大和朝廷(日本武尊)の開拓がなされたかを物語るのです 
左上下 高川の多珂橋と多珂神社の大鳥居 下は延喜式内社多珂神社 
多珂の文字が日本書記の竹水門の竹(たか)からの由来としたら想像するだけでも楽しい神社だ 多珂・高・多賀等と言う地名が茨城・福島・宮城県の太平洋岸に多いのは日本武尊伝説とは無縁ではないでしょう  多珂の由来が常陸風土記にある。『多珂の郡東と南とは、並び大海、西と北とは、陸奥と常陸の二つの國の堺の高山なり。古老のいへらく、斯我(しが)の高穴穂の宮に大八洲照臨(しろ)しめしし天皇(すめろぎ)の御世、建御狭日命(たけみさひのみkと)を以ちて多珂の國造に任(よさ)しき。茲(こ)の人初めて至り、地髏(くにかた)を歴驗(めぐりみ)て、峯險(みねさか)しく岳(やま)崇(たか)しと為して、因りて多珂の國と名づけき。建御狭日命と謂(い)ふは、即ち是、出雲の臣の輩なり。今多珂、石城と謂へるは是なり。風俗(くにぶり)説(ことば)に、薦枕8こもまくら)多珂の國といふ。・・・・・(白河市史)』とありその由来を記してるが陸奥と常陸の堺の高い山といえば久慈川源流の八溝山(1022m)位しかないが地名になるほどの峯險しく岳崇とは言えるほどの山ではないと思うのだが・・


 扁額多珂神社 下 多珂橋のプレート
 
 太田川(高川)河口から上流方面を望む 日本武尊はこの川を上り途中から北上して原町の高及び大甕の地まで蝦夷を追捕したのだろうか 夢を駆り立てる所だ
  太田川(高川)中流
小高町にも小高川がある
 大田川と小高川河口の距離は僅か5〜6kmであり日本書紀時代の大和朝廷から見れば誤差の範囲だ 
太田川か小高川のどちらかが日本武尊が上陸した河口と言われる
  原町市太田川(高川)河口と太平洋 日本武尊はここから太田川をのぼったか 高の地までわずか数キロである
   真吹の郷 其の3