真野の萱原
陸奥の 真野の萱原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを 万葉集巻3-395 笠女郎
待恋の心をよめる
陸奥の 真野の萱原 かりにだに 来ぬ人をのみ 待つが苦しき 金槐和歌集 源 実朝
鹿島町は平旦で平凡な農村の町である。碁盤の目に整備された田んぼに歌の面影はない。真野川の河川敷や河口に僅かにその名残を留めるだけである。笠女郎が恋い慕う大伴家持は老骨に鞭打って征夷太将軍として多賀城にいた。遥か遠くまつろわぬ荒振る蝦夷への鎮守府としての多賀城は不安と恐怖につつまれた言わば国境の前進基地であったろう。その後方支援基地としての原町真吹郷の丘陵地から遠の朝廷を毎日拝する度に足下にはこれまた荒涼とした真野の萱原が一面に生い茂っているだけの風景が広がっているのだ。都に比してその寒々した景色は猶一層不安と恐怖を増幅させたに違いない。
冬枯れの 真野の萱原 穂に出でし 面影見せて 置ける露かな 新拾遺和歌集 大江忠房
夜もすがら 真野の萱原 風冴えて 池の汀も 氷しにけり 新古今和歌六帖 源 俊頼
笠女郎は都の人たちの噂と風評で一度も見たこともない陸奥のこの鹿島町を想像したに違いない。まるでシベリアのツンドラ地帯のように。然しそうではなかったようだ。実はここには国指定の真野古墳群があり又目と鼻の先には当時日本最大の製鉄工場地帯と軍団や郡衙もあったと云う実に活気に満ち溢れた文化の先進地だったのだ。信じられないだろうが。ただややこしい事に芭蕉が『あくれば又しらぬ道をまよひ行く。袖のわたり 尾ぶちの牧 まのゝ萱原などよそめにみて遥かなる堤を行く・・・・』と戸伊摩(登米)・平泉へ向う道すがらを奥の細道に書いている。鹿島町ではなく現住所が宮城県石巻市真野字萱原と言う所を記しているのが気になるところである。勿論真野川も流れていているので鹿島町と石巻市と一体どちらが本物の真野の萱原か紛らわしいのです。尚古代真野については http://www.musubu.jp/manoireukita に大変興味深い記述があります(平成15年2月10日)(参考 鹿島町史 鹿島町 おくの細道 講談社学術文庫 福島県の歴史 河出書房新社) |
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左 真野の萱原の万葉歌碑
昭和30年代まで一面萱原だったというが今は萱一本見えなかった 相馬郡鹿島町桜台山
左下 式内社鹿島御子神社 旧6号国道沿い鹿島町の中央にある 大同元年(806)とも言われ武道の神様武甕槌命が常陸鹿島神社から東北地方平定の折、その子天足別命を当地に留めて賊徒の平定に当らせ天足別命を当地の祭神としたので御子神社と云う 延喜式内社の由緒ある神社は原町区の製鉄炉跡や行方軍団・鹿島古墳群の古代史蹟とも無縁ではないでしょう 樹齢1000年超の2本の欅は見事です 同じ名の神社が石巻市日和山公園にもあり天足別命と香取神宮の祖神の御子神の二人が先住蛮族蝦夷の地に入った最初の大和民族であると石巻の神社の栞には記されてる 三代実録には鹿島神社の真末社は標葉郡2・行方郡1・宇多郡7社もあり蝦夷との戦の中で次々と分社された 律令政府にとってこの地区は蝦夷制圧にとり重要地域だったのでしょう |